聖と俗の極限。映画『カラヴァッジョの影』が最高だった。

映画

良作に思いがけずして出会う悦び

人生にはふと真面目な映画を
見たくなる瞬間というのがあります(断言)。

しばらく前、そのような気分になった私が
アマプラを物色していた折、
久々にこれは、と思わされる一作に出会いました。

『カラヴァッジョの影』という2022年のイタリア映画です。

タイトルからもわかるように
バロック期を代表する画家である
カラヴァッジョを主役に据えた一種の伝記映画です。

私はもともと美術や歴史に興味があったことに加え
カラヴァッジョの作品が好みであったこともあり
じゃあ見てみようか、ということになりました。

それで、結果として大正解だったわけです。

具体的に何が良かったか、については
これからつらつら書き連ねていくわけですが、
若干のネタバレを含むので
気になる方は先に映画を鑑賞してからまたお越しください。

それでは、どうぞ。

あらすじ

時は17世紀初頭のイタリア。

カラヴァッジョは天才画家でありながら
売春婦や泥棒を聖画のモデルに起用したことで
当時絶対的な権力を有していた
カトリック教会の保守派から
反逆児とみなされていました。

加えて過去に犯した殺人の罪で
死刑判決(!)を受けてローマを追放されてもおり、
パトロンの元で身を隠しつつ
ローマ教皇庁へ恩赦の請願をしている状況です。

ローマ教皇庁はカラヴァッジョの恩赦を検討するため
秘密諜報員(影)を派遣。

観客である私たちは"影"の視点から
謎多きカラヴァッジョの素顔にを迫っていく…
というのが本作の大まかなあらすじです。

先に知っておくと映画が『二倍』楽しめるお得な豆知識

"ミケーレ"?

劇中、カラヴァッジョは度々ミケーレと呼ばれます。

ミケーレというのは、彼のファーストネームである
ミケランジェロの短縮形です。
(フルネームは『 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ』)

ちなみにカラヴァッジョの方は
出身地であるイタリア・ミラノ近郊の小さな村
「カラヴァッジョ」に由来するそうです。

カトリック激強💪な時代背景

カラヴァッジョが活躍したバロック期は
以前としてカトリック並びにローマ教皇庁が
絶対的な影響力を有していた時代でした。

16世紀に始まったプロテスタントの躍進に対抗し、
ローマ=カトリック教会が自ら協議や組織を立て直そうとする過程(対抗宗教改革)で
思想統制や支配の強化を強めており、

逆らうものには(後述するジョルダーノ・ブルーノのように)
命の危険が及ぶことすら珍しくありませんでした。

また、当時のカトリック教会にとって美術や建築は
教会権威の正当性と神聖さを視覚的に誇示するための
プロパガンダの一手段としての役割がありました。

そのためカトリック教会は
カラヴァッジョをはじめとする芸術家に対して
絵の主題や表現方法に至るまで事細かな指定を行っていたのです。

そうした時代性を抑えた上で本作を見ると
カラヴァッジョの苦悩により深く共感することができます。

影』とは何者?

あらすじにも登場した『影』ですが、
彼はこの映画のもう一人の主人公と言っても過言ではない
重要な立ち位置の人物です。

『影』はローマ教皇の秘密諜報員であり、
劇中での彼の仕事はカラヴァッジョの恩赦の是非を見極めることです。

教会側に属する人材ということもあり、そのスタンスは極めて冷酷かつ保守的。

情報を引き出すためなら拷問も平然と行い、
特に娼婦など、当時のモラルで
『罪深い』とされる者には高圧的な態度で望みます。

そんな彼がカラヴァッジョの真実に迫る中で
どのような変化を見せていくのかというのも
本作の見どころとなっています。

ここが映画の見どころだ!

苦悩する魂にしか産み出せない美がある

映画の中で、最初に『これは当たりかもな?』
と思わされたのが次の一幕。

カラヴァッジョの作品がずらりと並んだ廊下を
『影』と絵の持ち主である枢機卿が歩いています。

絵についていくつかの会話を交わしたのち、
最後に『メドゥーサの首』の絵の前で枢機卿がこう語りました。

「ミケーレのような悩める魂だけがこのような傑作を生み出せるのだよ」

メドゥーサの首(1597年-1598年) モデルはカラヴァッジョ自身の自画像とされている。

私はこのセリフから本作が
カラヴァッジョ自身の苦悩を描くことに
一つの主眼を置いているのだと理解しました。

単なる歴史的天才画家としてではなく
悩める一人間としてのカラヴァッジョを描く…

これは私の見たいと思っていた方向性バッチリでした。

またもう一つ、カラヴァッジョがパトロンと会話する別の場面で
パトロンからなぜ娼婦や泥棒を聖人画のモデルに採用するのか
と問われたカラヴァッジョが次のように答える場面があります。

「いいえ むしろ理想のモデルです」
「その身で実存の痛みを生きる者」

当時、アカデミーでは
ラファエロなど過去の巨匠の様式を模した
理想化されたモデルを描く、現実感のない絵画が主流でした。

マニエリスム絵画の一例 『パルミジャニーノ作 首の長い聖母(1535-40年)』
こちらは劇中にも登場するアカデミーの画家、バリオーネの代表作 『神聖な愛と地上の愛(1602-03年) 』

一方でカラヴァッジョは労働者や娼婦たちが纏う
「生々しい生活の匂いや生命感」を聖画に持ち込んだ点で革新的でした。

カラヴァッジョ作 キリストの埋葬(1603年–04年)

絵の中の聖人が、理想化された、浮世離れした姿ではなく
自分たちと同じような弱さや疲弊感をもった『人間』として描かれている。

このことは人間誰しもが持つ
「罪深さと救済の必要性」を生々しく表現することに繋がり、
ひいては彼の絵の持つ真実性を高めることにも繋がりました。

これは私の見解ですが、カラヴァッジョの偉大さは、
宗教的な神聖と社会の底辺で苦しむ人間の現実を
いかに融合させるか、という問いに
その有り余る才能の全てを持って
挑み続けた点にこそあるのだと思います。

しかし、彼のあまりに先鋭的な表現は
一部の保守的な人々の反発をも招きました。

映画でも描かれている『聖母の死』の受領拒否はその最たる例です。

ジョルダーノ・ブルーノの死

映画の中盤、喧嘩をして雑居房に放り込まれたカラヴァッジョが
ジョルダーノ・ブルーノと出会うシーンがありました。

ジョルダーノ・ブルーノといえば
カトリックに反する神学上の主張をして
最後は火刑に処されたことで有名なイタリアの哲学者です。

ジョルダーノ・ブルーノ - Wikipedia

私はその存在は知っていたのですが
カラヴァッジョを題材とした本作に登場するとは
つゆとも思わず、嬉しいサプライズとなりました。

さて、劇中のジョルダーノ・ブルーノは既に投獄されて
後は火刑を待つだけの身であり、最初は一方的に
自分の主張を喚き散らす迷惑おじさんとしての登場となります(笑)。

ですが、カラヴァッジョとの対話を通じて少しづつ落ち着いていき、
最後にはポツリと「私は怖いのだ」と本心を打ち明けた上で
恐怖を和らげるために、カラヴァッジョに檻越しに手を握ってもらいます。

来るべき死を待つだけの絶望的な牢獄の中で、2つの孤高の魂が手を取り合う…
なんとも詩的で美しい一場面です。

またもう少し突っ込んだ見方をすると
この場面からは形骸化した当時の教会の救いに対しての
より人間的な、手のぬくもりを介した偽りのない救済という
対比の目論見を汲み取ることもできます。

宗教と権力が支配する暗黒の時代にあって
現実を生きる人間そのものの姿を描き続けたカラヴァッジョを通じて
真の人間救済の在り方を問う。

この場面からはそうした作り手からの強いメッセージ性が感じられました。

その後、最終的にブルーノは刑吏によって
刑場に引っ立てられていくのですが
その際には「死ぬ私よりも、殺す諸君の方が怯えよって」という
有名なエピソードに即した言葉を残しています。

ここで言う怯えとは、真理(科学や新しい世界観)の拡大を止められないことに対する
権力者(教会側)の恐れを言い表していることは明らかです。

当時のローマカトリックは自分たちこそが世界の中心であり
唯一絶対の正義であると民衆に信じ込ませることで
自らの権力基盤を維持してきました。

しかし、ブルーノを始め、権力に屈しない真理の探求者が現れるたび
教会はその「絶対性」のほころびを露呈させていました。

ブルーノの処刑は、そんな彼らの支配体制の本質的なもろさ、
結局は暴力でしか支配できない現実を示しています。

そして、このことは教会保守派の非難を受けつつも
自身の希求する絵画表現の『真理』を
追求したカラヴァッジョの姿にも重なります。

一見無関係と思えるブルーノの登場は
こうした真理の探究者としての
カラヴァッジョの側面を強調する効果を
ねらったものだったのでしょう。

史実において、二人が実際に
邂逅したという記録はありませんが
そこは映画の特権。

効果的なフィクションによって
テーマ性の深化とカタルシスを持たせた
本作随一の名シーンだったと思います。

随所に見られる中世的な価値観。

映画の中で、"影"が絵画工房を訪れた場面、
そこにいた女性画家に対して"影"は『女は絵を描くべきではない』
という、フェミニストの皆さんが見たら発狂しそうなセリフを口にしていました。

それに対し、当の女性画家は
『芸術は性別から自由です』と返していましたが
結論から言うと、教会や当時のアカデミズムにおいては
"影"の方が普通(=支配的な)考え方でした。

芸術家の訓練には人体デッサンが必要不可欠ですが
当時はまともな女性が裸体モデルを見る/描くことは不道徳である
と考えられており、そもそもの時点で女性が正規の教育を受け
一人前の画家として公に認められる道は閉ざされていました。

他にも「家事と育児」を女性の神聖な役割と見做す
カトリックの伝統的な価値観や男性中心の職能ギルド、
美術アカデミーの存在など女性が表現者となるには
極めて高いハードルがいくつも存在していたのです。

映画を通じてこうした時代による価値観の変遷、
比較的自由な現代に生きられることのありがたみを知れることも
歴史作品見るときの面白さの一つではないでしょうか。

『影』とカラヴァッジョの対決

映画の最後で 『影』はついに
長らく追い続けてきたカラヴァッジョとの対面を果たします。

カラヴァッジョの作品に触れ、その才能を認めた『影』は
これまでに描写されてきた彼の性格を考えると
意外とも思われるある『提案』をします。

その結末についてはここでは控えておきますが
個人的にある程度予想はできたものの、
美しいロケーションも相まって
何かある種の救いのようなものが
感じられる内容だったとだけ述べておきます。

価値相対主義がすっかり浸透し、
真理の追求などとうっかり口にすると
冷笑されかねないこんな世の中ですが、
この映画を見た後には
『お前は本当に自分の内から発する声に対して誠実に生きているのか』
改めて自分自身に問いかけずにはいられませんでした。

ルネサンスの華やかな衣装

史実を題材とした映画では
美術面のクオリティが作品への没入度を大きく左右します。

映画好きなら歴史映画でセットがチャチかったり
CG丸わかりだったりして萎えた経験が一度くらいはあるはず。

その点このカラヴァッジョの影は
美術面で少なくとも私から見てケチの付け所は一つもありませんでした。

特に良かったのが登場人物が身につけている衣装の華やかさですね。
貴族たちの華やかなドレスもそうですが、

影の身に纏う黒で統一された
ゴシック感のある衣装もシックで激カッコよです。

ちょっと話は逸れるのですが、
当ブログでも過去に紹介記事を書いた
ウィッチャー3というゲームがありまして、
本作の建物や衣装の感じがそれとすごく似てるんですよね。

かつてウィッチャー3に感銘を受けた者として
映画の鑑賞中に心の中で何度
「これもうウィッチャーの世界じゃん」と呟いたかわかりません(笑)

終わりに

題材よし、ストーリー性よし、テーマ性よし、美術面良しで実に俺得な一作でした。

鑑賞後に調べたところ
監督のミケーレ・プラチドは御年八十歳の大ベテランとのことで、
本作の深みのある人間描写の背景には
その人生経験も反映されていたのかもしれないですね。

ハリウッド映画のような分かりやすいエンタメ性はないので
万人に勧められるかと言われるとやや微妙ですが
歴史や美術に興味があれば文句なくおすすめできる一作です。

それでは、最後に
私の心に残った一節を引用して
本日はお別れとさせていただきます。

祝福されしは聞く耳である。
外に響く声ではなく
内に養われる真理を聞く耳である。

祝福されしは外を見ぬ目である。
心の内を見る目である

祝福されしは内へと
貫く者たちである。

彼らは日々自らを
一層磨かんと試み
天の神秘を
解さんと欲する。

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