人間の本性は悪!? 法家思想の大家、韓非子に学ぶクールで現実的な処世術

哲学

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こんにちは、DAIMAです。
本日は、法と権力によって国を治める、法家思想を
大成させた中国戦国時代(BC403~BC221)の思想家
韓非とその著書韓非子についてお話します。

(サムネのイラストは、肖像画を元に
私がイラスト化してみたものです。)

人を信ずれば人に制せらる

韓非子といえば、
上にある有名な文言に代表されるように、
徹底した人間不信の立場に立ち
その上で理想的な法律や統治について
説いた書物であり、それゆえに
非情の書」とも呼ばれています。

秦の始皇帝はこの書を高く評価して
厳しい法律による国家運営を実現し、
魏の軍師諸葛亮孔明は、この書を筆写して
劉備の子劉禅に送ろうとしたとも言われています。

また、韓非の打ち立てた法家思想は、
漢、唐、明 … と時代を下っても
国家運営の要として生き続け、現代においても
人材管理や企業運営などの場面で
その考えが引用されることも少なくありません。

一体なぜ韓非子は永きにわたって
その影響力を保ちつづけてこられたのか。
今回は時代背景や儒家思想との比較も含めて
その謎に迫ってみたいと思います。

※文中の韓非子の現代語訳は
後述する参考書籍からの引用となります。

韓非の生きた時代とは

まずはじめに、韓非の生きた
時代背景について見ていきましょう。

韓非が生きていたのは
晋が3つの国家に分裂し、
多くの国家が覇権を競って争った
群雄割拠の戦乱の時代であり、
同時に諸子百家と呼ばれる
識者たちが活躍した時代でもあります。

当時は孔子孟子を代表とする
儒家思想が全盛を極めており、
国家運営の面でも盛んに
儒教思想が取り入れられていました。

儒教思想の功罪

儒教思想と言えば、仁義礼智信を重んじる
理想主義的な性善的思想であり
中でも孟子による次の一節が
その本質を良く表しています。

人皆有不忍人之心。

(人皆人に忍びざるの心有り。)

人にはみな、
生まれ持った善意があるという考えで、
これを象徴した「
井戸のそばの幼児」
というたとえ話も有名ですね。

「幼児が深い井戸の側を歩いていて、
その中に落っこちそうになるのを見れば
誰もが手を伸ばして助けようとする。
これは、幼児の親に恩を売ろうとか、
他人に褒めてもらいたいとかではなく
純粋に善意から出たおこないである。
人には無償の善意というものがあるのだ」

また、儒教思想は親子の関係についても
同様に非常に重視しており、
この考え方を政治にも適用して、
為政者を父、国民を子に当てはめて
その統治の正当性を強める目的にも
利用されてきました。

(江戸時代の日本も儒教思想を利用して
幕府の権威の安定化を図っていました。)

儒教思想の理念は、一見して人にやさしく
理想的な思想に思えますが、
血縁関係の過剰な重視(=汚職の蔓延)や、
儒教以外の思想を排斥する専制的な傾向から、
時代を経るにつれ、現実とのギャップが
だんだんと大きくなっていました

そんな儒教思想に対し、待ったをかけたのが
韓非子の師である荀子です。

荀子性悪説

荀子孟子の唱える性善説
次のように容赦なく批判しました。

孟子は人の性は善だと言うが、
わたしに言わせれば、それは間違っている
古今、いずれの世界でもいわゆる善というのは、
道理にかない秩序だっている状態、
悪というのは偏頗(へんぱ)で
筋の通らない乱脈をいう。
これが善と悪の区別である。

人間の本性は悪である。だからこそ、
その昔聖人は、人は性悪ゆえに、
偏頗であり不正を起こし、
乱脈であり無秩序となると危惧し、
それに対応するために
君主の威勢を打ち立てて政治をおこなわせ、
礼儀を明らかにして教化をおこない、
法律を作って統治し、
刑罰を重くして犯罪を防ぎ、
世界中に安寧秩序をもたらし、
善と合致させたのである。

(中公新書 冨谷 至 著 韓非子 62P、63Pより引用)

荀子にとっては、人の本性は悪であり、
人がルールを守り善行をおこなえるのは、
産まれた後に学習を行ったから
だと説きます。

人の本性は善か悪か。これは古今東西問わず
長い間考え続けられてきたテーマであり、
現代においても明確な答えはでていません。

荀子以降、様々な思想家が登場し、
このテーマについてあれこれ議論を重ねますが
当然説得力ある結論は出ず、不毛な議論が続きます。
ですがそんな中、ついに韓非が登場し
荀子の思想を継承、発展させ、
国家運営の強力な武器に昇華させたのです。

人は損得によってのみ動く

韓非はまず、人間を
利己的で打算的であり損得によってのみ
動く
生き物だと断言します。

韓非がそう考えるに至ったのは
当時の現実をつぶさに観察したからであり、
韓非子には人間の狡猾さや欺瞞についての
生々しいエピソードが収録されています。

楚王の妾に鄭袖という女性がいました。
ある時楚王が新しい美人の妾を得ます。
鄭袖はその新しい妾に対し、
「王様は女性が手で口を覆う仕草が好きだから、
王様に近づく時は手で口を覆うようにしなさい」
と教えました。

美人の妾はその話を信じ、
始めて王とのお目見えする際に
さっそくその仕草を実行します。

事情を知らない王が
その理由を周囲に尋ねると、
鄭袖は王にこう告げました。
「あの女は王の匂いを嫌って
手で鼻を覆っているのです。」

これに無礼だぞと激怒した王は
従者に命令して美人の妾の
鼻を削いでしまったのでした。

(内儲説下篇)

背筋がゾッとするような嫉妬のお話です。
ですが、ここまで過激でなくとも、
強力なライバルを蹴落とすため、
権力者に嘘を吹き込んで陥れるようなやり口は
現代でもザラにあるのではないでしょうか。

また、親子の情についても
次のようにバッサリと切り捨てます。

人というものは幼児に父母におろそかにされると
成長して親を怨むこととなる。

成人となった子供が
老いた両親をぞんざいに養うと
親は怒って子供を責める。

本来、子と父の仲は、
利益を度外視した
きわめて親密な関係であるはずなのに、
相手を非難したり怨んだりするのは
自分に相手が報いてくれるという
打算があるからにほかならない。

得をすると思えば仲よくなり、
損をすると思えば、
親子の間にも恨みの気持ちが生じる。

(外儲説左上
中公新書 冨谷 至 著 韓非子 95P、96Pより引用)

一般感覚としては、
血の繋がり、親子の情というのは
絶対的なものだと信じたくなりますが、
利益によってつながっているとする
韓非子の理屈も否定しきれないのが
恐い所ではあります。

利己的な人間を統御するには?

人間を損得で動くものだと割り切る韓非。
韓非子ではこの理論に従って
人を治める方法について説いています。

他人に期待しない

人が思いやりをもって
こちらのために何かしてくれるということを
期待するのは、危険だ。

確実な事は、こちらのために
せざるをえないようにもっていくことだ。

君臣関係は、肉親の関係ほど緊密ではない。
まっとうなやり方で身の安全が保障されるならば、
臣下はそれなりに力を尽くして
主人に仕えるだろうが、
そうでなければ私利私欲に走り、
上に取り入ろうとする。

だから聡明な君主は、
何が得で、何が損なのかを
はっきり天下に示すのだ。

(姦劫弑臣
中公新書 冨谷 至 著 韓非子 95P、96Pより引用)

韓非子で語られるこの考えかたは、
現代の経営やリーダーシップの面でも
十分に通用する原理だと思います。

上に立つ者が損得をはっきりさせる事は
大規模な集団、チームを纏める上では
効果的な手段であると言えるでしょう。

頼れるのは自分だけ

君主は官爵を売り、
臣下はそれに対して己の知力を売る。

頼りにできるのは、自分しかない。

(外儲説右下
中公新書 冨谷 至 著 韓非子 99Pより引用)

雇用主と被雇用者は
あくまでもギブ&テイクの関係であり
そこに人間的な情など介在しないという、
韓非子らしい合理的でドライな考え方です。

中小企業に多く見られる
助け合い、家族経営の企業理念とは
真っ向から対立する思考法ですね。

法の目的と役割について

韓非子では、
国を治める法律についても
興味深い洞察を提示しています。

法は威嚇、予防のためにある

韓非子では、
利己的な人間をコントロールするには
法律で厳しく取り締まらねばならない

強く力説されています。

出来の悪いどうしようもない子がいたとしよう。
親や近所のものや先生がいかに
怒って、責めて、また教え諭しても変わらず、
その脛の毛ほども改めようとしない。

ところが、巡査が何人かを引き連れて、
法律を以て悪人を摘発するという事になると、
恐くなって変節し、良い子になる。

つまり、父母の愛情など十分な教育効果はなく、
お上の厳しい刑罰に待たねばならないのだ。

それは、民衆は愛情に対しては
図に乗ってつけあがり、
威嚇にはおとなしく
従うからにほかならない。

(五蠹
中公新書 冨谷 至 著 韓非子 117Pより引用)

上記の論説に対しては、
特に教育と父母の愛情に関して
異論が多く出そうではありますが、
刑罰による恐怖こそ、
大衆をコントロールするのに
最も効果的
だという考えは
無視できない説得力があるように思えます。

もし韓非が現代に生き返ったら、
少年法の撤廃と厳罰化に
強く賛成することでしょう。

刑罰とは悪人を裁く為でなく、一般人を教化する為にある

韓非子刑罰は重ければ重いほど良いとし、
それは悪人を罰する為ではなく、犯罪者ではない
一般人への見せしめとすることで
未然に犯罪を防止する
為なのだと説きます。

政治を知らないものは、皆こう言うだろう。

「刑罰を重くすると、人民を傷つける。
刑罰を軽くしても悪事を予防できるのに、
どうして重くする必要があるのか。」

これは、政治をよく分かっていない者の
言葉であって、そもそも刑が軽い場合にも
悪事から遠ざかるとは限らない。

しかし、軽い刑で悪事をやめる者は、
重い場合には当然悪事には、手を出さない。

したがって、お上が重い刑罰を設ければ
それによって悪事は一掃され、
それがどうして民衆を傷つけることになろうか。

重刑は、悪人にはプラスになるところが小さく、
お上が下す罰は大、民はわずかの利益のために
大きな罪を犯すことはしない。
悪事は必ず抑制することが
できるということになる。

軽い刑は、悪人が得る利益は大きく、
お上の下す罰は小、
民は利益を目当てにその罪を見くびるから、
悪事は防ぎようがない。

(六反
中公新書 冨谷 至 著 韓非子 130Pより引用)

これは一種の極論にも思えますが、
刑罰の恐ろしさが犯罪を防ぐというのは
筋の通った理屈であります。

もし、この世から刑罰がなくなって、
全てを個人の善意に委ねることになれば
世の中はどうなってしまうのでしょうか。

そうなれば、私は恐くておちおち外も
出歩けない世の中になるのでは
ないかと思います。

韓非子の七術

最後に、韓非子の内儲説 上に記述されている
君主の用いるべき七術をご紹介します。

  • (一)臣下の行動と言葉を検証して、
    言行の不一致がないかを判断する
  • (二)罪には必ず罰を与えて、威厳を示す
  • (三)功績を挙げた臣下には、然るべき褒賞を与える
  • (四)情報は自分の耳で判断し、臣下の伝聞に頼らない
  • (五)不可解な命令をあえて出して
    臣下を動揺させそれを試す
  • (六)知らないふりをして質問し、
    相手の知識や考えを観察する
  • (七)思っていることの逆のことを言って
    相手の反応を見る

(一)~(四)までは
ここまで見てきた韓非子の考え方から
自然に導き出される考えですが、
(五)~(七)については、より実践的な
テクニックの趣が強くなっています。

これらのテクニックは、
現代の人間関係でも有用であり、
ここにも韓非子のもつ
普遍性の高さが見受けられます。

人の上に立つ者の知恵としては、
帝王学にも通じるところがありますね。

おわりに

ここまでを通して、
韓非子の思想の概観を見てきましたが、
いかがだったでしょうか。

韓非の考えになるほどと頷けた方もいれば、
あまりに理屈に寄りすぎていて、
現代社会には適用できないと感じた方も
当然いらっしゃると思います。

ただ、現実に応用するかは別として、
韓非子の思想は、人間の本性や、
法律の存在意義について
改めて考えさせてくれる
有益な書物であることは間違いありません。

韓非子を読んで共感された場合でも、
「明日からうちは厳罰主義でいこう!」
と早計な判断はせずに、
右手に論語、左手に韓非子のスタンスで
対立する両者のバランスを取りながら
私たちの人生にうまく役立てていきましょう。

今回の参考書籍

韓非子―不信と打算の現実主義 (中公新書)

韓非子―不信と打算の現実主義 (中公新書)

本記事を書く上で大変参考にさせて頂いた
京都大学の教授である冨谷 至氏の著書です。

今回取り上げられなかった部分はもちろん、
マキャベリホッブズといった
西洋哲学者との比較もあり、
読みやすく得るところの多い書籍です。

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