これまでの人生で最も心揺さぶられた本の中の名文5選

読書

はじめに

「読書をする者は死ぬまでに千の人生を生き、
一度も読書をしない者はたった一度の人生のみを生きる」

というのは「氷と炎の歌」シリーズの
著者として知られるG.R.Rマーティンが
自著の登場人物に語らせた有名な箴言ですが、
この言葉が示す通り、読書はしばしば
単なる知識の共有以上の体験を私たちに齎してくれます。

書くいう私も幼少時から沢山の本と出会い、
ある時は登場人物の運命に対する共感し、
ある時はこれまでの自分にはなかった
全く新しい世界の見方を知って衝撃を受けたりして
本当にとても多くの事を学ばせてもらいました。

さて、本日はそうした私の体験を
これをお読みくださっているあなたにも
より手軽に追体験して頂くための試みとして、
私が今まで読んできた本の中から
特に私が心打たれた素晴らしい一文を抜き出して
皆様にご紹介させて頂きたいと思います。

これから読む本の参考にして頂いても良いですし、
単に興味本位で眺めて頂くだけでも勿論大歓迎です。

それではどうぞ。

自薦書籍名文集

タイタンの妖女

ボアズはいまその言葉を言った——

「おれはなにもわるいことをしないで、
いいことのできる場所を見つけた。
おれはいいことをしてるのが自分でもわかるし、
おれがいいことをしてやってる連中もそれがわかってて、
ありったけの心でおれに惚れている。
アンク、おれはふるさとを見つけたんだ。

いつかここで死ぬときがきたら、
おれは自分にこういえると思うんだ。

『ボアズ——
おまえは何百万もの生き物に生きがいをくれてやった。
こんなに大ぜいを喜ばせた人間は、ほかにひとりもいねえぜ。

この宇宙でおまえを憎むやつはひとりもいねえよ』ってな」

それからボアズは、彼が一度も会ったことのない
父と母になりかわって、優しく自分にいった。

「『さあ、もうおやすみよ』」

ボアズは、洞窟の中で死の床に横たわっている
想像上の自分にいいきかせた。

「『おまえはいい子だよ、ボアズ。
さあ、おやすみ』」

(出典:「タイタンの妖女」 カート・ヴォネガット 1963)

独特のシニカルな作風で知られる
カート・ヴォネガットの初期の代表作『タイタンの妖女』より、
主人公のマラカイ(=アンク)と
火星軍の黒人兵士ボアズとの別れの場面の一文です。

このボアズというキャラクター、
最初は一般兵士に紛れて他の兵士を監視する
影の指揮官という立場で登場し、隠し持った制御盤を使って
仲間の兵士に苦痛を与えたり
表向きの上官たちに人間競馬めいた競争をさせることを
冷笑的に楽しむというリアルに嫌な性格の人物として描写されていました。

そんなボアズでしたが、
火星軍による地球への一斉攻撃が行われたある日に
本作のもう一人の重要人物であり、未来を見通す力を持った
ラムフォードの思惑によって、アンクと共に
小さな宇宙船で本隊からはぐれて宇宙を漂流することとなり、
さらに不時着した先の水星でハーモニウムという
薄い小さな凧のような体を持ち、
音を食べて栄養とする習性を持つ奇妙な生物の群れと出会います。

このハーモニウム、基本的に人畜無害で
音を食べる他には
「ボクハココニイル、ココニイル、ココニイル」
「キミガソコニイテヨカッタ、ヨカッタ、ヨカッタ」

という二種類のメッセージを
微弱なテレパシーで送受信することしかできない単純な生き物※なのですが、
水星での遭難生活が長引くうちに
ボアズはこのハーモニウム達に愛着を感じるようになっていきます。
(※後にこのハーモニウムもまた
ラムファードがアンクの運命を操るための道具の一つであったことが明かされます)

そして遭難生活から3年が経過したある日、
アンクはついに水星を脱出し
地球へと帰る方法を発見するのですが
それを聞かされたボアズはアンクの予想に反し
ハーモニウム達と水星に残る意思を伝えた…
…というのが冒頭の場面に至るまでのおおまかな経緯です。

産まれてから誰からも愛されたことが無く、
それゆえに支配することでしか
他者との関係を築くことが出来なかったボアズが
アンクと二人きりの心細い
宇宙の漂流で他者の必要性を再認識し、
さらにハーモニウムたちとの出会いを通じて
自分なりの幸福を見出したこの展開には
私自身とても強く心打たれました。

もっともこれは一つの好意的な解釈でしかなく、
少し意地悪な見方をすればボアズの事を
最初から最後まで他者に利用された挙句、
最後にはまやかしの愛に人生を捧げることになった
むなしい一生だったと断じてしまう事も可能なのかもしれません。

そこをどう捉えるかは読み手次第ではありますが、
私的には本作の終盤である人物が口にする
「人生の目的は、どこのだれがそれを操っているにしろ、
手近にいて愛されるのを待っているだれかを愛することだ」
というメッセージの存在もあり、ヴォネガットもまた
ボアズの人生を肯定的なものとして描いていたのではないかと考えています。

また本作ではもうひとつ、
ラストシーンでもかなり涙腺を刺激されたのですが
それについては実際に読んでのお楽しみという事で…

百年の孤独

「いいえ、その反対よ。こんなに気分がいいのは初めて」
彼女がそう言ったとたんに、フェルナンダは、光をはらんだ弱々しい風がその手からシーツを奪って、いっぱいにひろげるのを見た。
自分のペチコートのレース飾りが妖しく震えるのを感じたアマランタが、よろけまいとして懸命にシーツにしがみ付いた瞬間である、
子町娘のレメディオスの体がふわりと宙に浮いた。
ほとんど視力を失ってはいたが、ウルスラひとりが落ち着いていて、この防ぎようのない風の本性を見極め、シーツを光の手にゆだねた。
目まぐるしくはばたくシーツにつつまれながら、別れの手を振っている小町娘のレメディオスの姿が見えた。
彼女はシーツに抱かれて舞い上がり、黄金虫やダリヤの花のただよう風を見捨て、午後の四時も終わろうとする風のなかを抜けて、もっとも高く飛ぶことのできる記憶の鳥でさえ追ってはいけないはるかな高みへ、永遠に姿を消した。

百年の孤独は1982年にノーベル文学賞を受賞した
南米コロンビアの作家ガルシア=マルケスの代表的著作であり、
ホセ・アルカディオとウルスラの二人を起源とする架空の一族の
百年に渡る興亡の歴史を綴った一大叙事詩です。

そのようなわけでタイトルから受ける印象に反して
実際には聞き慣れない南米風の名前を覚えるのに苦労するくらい
多くのキャラクターが登場する百年の孤独ですが、
今回取り上げるのはその中でも
ホセ・アルカディオ、ウルスラ夫妻の
ひ孫世代にあたる子町娘のレメディオスという少女が
ある日洗濯物のシーツと共に空に浮き上がって、
そのまま彼方まで飛び去ってしまうという
なんとも幻想的な場面での一文です。

ちなみにレメディオスの出番はこれが最後で
以降は一切登場してきません。

ここの件だけ読むと本作がまるで
ハリーポッターやLOTRのような
ファンタジー作品だと
誤解を受けてしまいそうですが、
これはガルシア=マルケスの得意とする
マジックリアリズムという小説技法※によるものであり、
こうした幻想的な描写は部分的なものであって、
それ以外の基本的な世界観は現実のコロンビアの歴史や
風俗を下敷きにした非常に現実よりなものとなっています。

ごくありきたりな日常の光景の中に
超現実的な描写を混ぜこむことにいよって
現実と非現実の境目があいまいになったような
不思議な味わいを生み出すことを狙っているわけですね。

実際に本作ではこれ以外にも
チョコレートを飲んで空中浮遊する神父とか
四年間振り続ける雨だとか
テレパシーで手術をする医者だとかの
マジックリアリズム的なモチーフが数多く登場してきます。

しかしながらその中でも私を含め
多くの読者の心に最も鮮烈に焼き付いたのは
このアマランタの昇天の描写で間違い無いでしょう。

白昼夢のような、
元居た場所にただ帰っていくような、
そんな穏やかな死のイメージ。

私は最初にこの場面を読んだ時、
これがマジックリアリズムの凄さかと
これまでにない読書体験に
衝撃を受けたことを強く記憶しています。

花火

警部が手を出す前に、
おっさんは、
突然キラキラ光って、
メラメラ燃えて、
パッと爆ぜよった。
窓からすうっと秋風が吹きこんできて、
河内音頭の太鼓の音が、
急に遠ざかった。

(出典:「花火」(「ショートショートの広場」収録) 江坂 遊 1985)

こちらは1978年に開催された
「星新一ショートショート・コンテスト」の
優秀作品を集めた『ショートショートの広場』
という本に掲載されていた『花火』という作品の締めの一文です。

ここだけ読むと「おっさん」が
花火のように爆ぜるという意味不明な内容なのですが、
全編を通して読むと、この場面が
警部の語る幼少時の思い出とリンクして
読者に鮮烈な印象を与える仕掛けになっています。

現実的な世界の中に
突如幻想的な描写が登場するという点では
これも先に紹介した「百年の孤独」の
マジックリアリズムの一種であると
言えるかもしれませんね。

特に私的には最後の
「窓からすうっと秋風が吹きこんできて、
河内音頭の太鼓の音が、急に遠ざかった。」
という一文が、なんだか
夏の終わりを感じさせるような
切なさが感じられてとても気に入っています。

私が『ショートショートの広場』を初めて読んだのは
確か12歳位の頃だったと思いますが、
その時から子供心に綺麗なお話だなぁと
感動していたことを覚えていて、
その後20歳くらいの京都で暮らしていた頃に
近所の古本市でたまたまこの本と再開した時には
小学生の頃の感覚が一気に蘇って、
冷やかしで寄ったつもりが思わずレジに直行してしまいました。

ショートショートの広場にはこの作品だけでなく、
今読んでも色褪せない綺羅星のような作品が
沢山掲載されていますので、ショートショート好きなら
是非この機会に手に取ってみることをおすすめします。

旅をする木

人生はからくりに満ちている。
日々の暮らしの中で、
無数の人々とすれ違いながら、
私たちは出会うことがない。
その根源的な悲しみは、
言いかえれば、
人と人とが出会う限りない不思議さに通じている。

(出典:「旅をする木」星野道夫 1994)

「旅をする木」は探検家、写真家、作家として活躍し、
1996年不幸な事故で亡くなった星野道夫氏が
その死の2年前に出版した随筆集であり、
選出の文章はその中に掲載されている
「アラスカとの出会い」と題された小話の中で、
星野氏がかつて自分をアラスカへと
誘うきっかけとなった一枚の写真を撮った
ジョージ・モーブリイというカメラマンと
20年の時を超えて対面した際に
心に湧き上がった感慨を言葉にした一文です。

そして私がこの言葉を気に入った最大の理由は、
星野氏がここで言及している感覚に
私自身幼い頃から何度も覚えがあったからでした。

例えば行列待ちや信号待ちの時に
ふと周りの人々を見渡して、
自分以外の何十億という人生が
世界中で同時に進行しているという
事実を改めて意識した時に
沸き起こってくるあの畏怖心。

例えば世界中に住んでいる
何十億という人間が暮らしているのに
私たちは一生のうちそのほとんどと
知り合うどころか名前すら知ることもないのだという
事実に対して感じるあの寂しさ。

そんな、確かに存在するのだけれど
上手く言い表せない不思議な感覚を
見事な感性でいい表したこの言葉に初めて出会った時には
思わず「私と同じことを感じていた人がいたんだ!」と
驚くやら嬉しいやら不思議な気持ちになったことを良く覚えています。

自省録

公益を目的とするのでないかぎり、他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな。
なぜならばそうすることによって君は他の仕事をする機会を失うのだ。
すなわち、だれそれはなにをしているだろう、とか、なぜとか、なにをして、なにを考え、なにを企んでいるかとか、こんなことがみな君を呆然とさせ、自己のうちなる指導理性を注意深く見守る妨げとなるのだ。

(出典:「自省録」 マルクス・アウレリウス・アントニヌス 1993)

『自省録』はストア派哲学に傾倒し
哲人皇帝とも称されたローマ帝国第15代皇帝
マルクス・アウレリウス・アントニヌスが書き記した言葉を集めた本です。

私はこの自省録という本には個人的に思い入れがあり、
出来れば死ぬまで傍らに置いておきたいと思っている一冊なのですが、
それもひいてはこの本に収録されている文章の多くが
本来人に見せる目的で書かれていない
マルクス・アウレリウスの個人的な日記等に由来しており、
それゆえにそれらの言葉から、一人の生身の人間としての
マルクス・アウレリウスの苦悩や葛藤が感じられたからこそでした。

1900年も昔のローマ皇帝というと
私たちにとっては時代も地域も大きく隔たった遠い存在の様にも思えますが、
今回取り上げた上記の言葉を始めとして
彼の残した言葉は驚くほど人間臭く、
現代の私たちにも共感できるものばかりなんですよね。

例えば
「何かをするときいやいやながらするな」
「信を裏切るな」
「他人に腹を立てるな」
「一万年生きるかのように行動するな(人生は短い)」
「最も良い復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ」
などなど。

特に死についてと
他者との付き合い方についての言及が目立つことから、
これらについては色々と思うところがあったことが窺えます。

また補足しておくとマルクス・アウレリウスの生きた時代のローマは
後に英国の歴史家エドワード・ギボンが
「人類が最も幸福であった時代」と言い表したほどの
平和と繁栄を誇っていましたが、一方で
度重なる異民族の侵入、疫病の流行、地震等の自然災害なども絶えず、
マルクス・アウレリウスもその在位期間中の多くを
戦場を駆け回りながら過ごすことを余儀なくされていたそうです。
(自省録の中には戦地の幕営で書かれた言葉も含まれています。)

世界最大級の大帝国の皇帝という
非常に恵まれた立場にありながらも
奢ることなく自分に課された重圧と孤独に耐え、
その責務を果たし続けたマルクス・アウレリウス。

私などの背負っている責任など
ローマ皇帝のそれに比べれば微々たるものですが、
それでも彼の言葉が記されたこの本を読むたびに
私自身もまた勇気づけられる思いがするのです。

番外編 : 未完成

気の抜けたサイダーが僕の人生

(出典:「未完成」住宅顕信 2003)

通常の書籍ではなく句集であるため
今回は番外編としましたが、
こちらは住宅顕信という自由律俳句の俳人の
死後に出版された:「未完成」という句集からの一句です。

前情報なしに読むと
なんだか肩の力が抜けてくるような
ゆるい印象を受けるこちらの句ですが、
しかしその詠み手の住宅顕信氏が
10代はバリバリの不良で通し、
16歳で年上の女性と同棲、
その後22歳で結婚した上に仏門に出家し
さらに25歳で急性骨髄性白血病のために
夭逝したという壮絶な人生を送った
人物であったことを知ると
同じ句が全く違った意味を持って見えてこないでしょうか。

若くして子宝に恵まれながら、
同時に病で長く生きられない可能性を
覚悟していたであろう詠み手が
自分の人生を「気の抜けたサイダー」と表現する時、
その短い言葉に一体どれほどの思いが込められていたのか。

有難くも今のところ大病とは縁なく過ごせている
私にその気持ちは完全には想像できなくとも
しかし体の底から震えるような衝撃を受けました。

またそのような背景から
顕信氏の句にはこれ以外の句にも
どこか暗い、蔭のあるものが多いのですが
その中にもいくつか希望や暖かさを感じさせる句があり、
そんな中でもう一つ私が大好きな句があります。

お茶をついでもらう私がいっぱいになる

お茶をついでもらうことで
茶碗と同時に私(の心)もいっぱいになるという
言葉遊びが活かされたこの句からは
詠み手の感じた日常の中の素朴な幸せが溢れ出ています。

こうした言葉に出会うたびに
日本語というものの持つ
美しさを再認識させられますね。

おわりに

本当はもっとたくさんの言葉たちを紹介したかったのですが、
一記事があまりに長くなるのも不便かと思いますので
それはまたの機会とさせていただきたいと思います。

それでは、今後の皆様の読書ライフが
さらに豊かなものとなることを願って
本日はこれでお別れとさせていただきます。

最後までお読みください誠にありがとうございました。m(__)m

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