自分を変えたい人に捧ぐ、曹洞宗の開祖『道元』の名言10選

一枚の羽根が手のひらに落ちる写真名言

はじめに

こんにちは、daimaです。

本日は
「自分を変えたい人の為の、
曹洞宗の開祖『道元』の名言10選」と題しまして、
(日本における)曹洞宗の開祖である
道元禅師の言葉をご紹介します。

道元(道元禅師)とは

道元(道元禅師)とは、中国で達磨大師が開いた曹洞宗を
初めて日本に伝えた鎌倉時代初期の禅僧であり、
繰り返しになりますが
(日本における)曹洞宗の開祖にあたる人物です。

京都の公卿の家に生まれた道元は
3歳で父を、8歳で母を失いました。

このような生い立ちに加え、
当時の華やかな貴族生活にも馴染めなかった道元は
13歳の時に出家して天台教学を修めます。

しかし当時の日本の仏教の教えに納得が出来ず
23歳の時には博多から南宋へと渡航。
諸山を巡ったのち、天童山景徳寺の天童如浄に師事し、
中国曹洞禅の只管打坐の禅を受け継ぐこととなります。

その後、日本へ戻った道元は
『寶慶記』、『普勧坐禅儀』、「正法眼蔵」などを著したり、
京都深草に興聖寺を開くなどして
日本に曹洞宗の禅を広めるための活動を開始。

建長5年(1253年)に没するまで
比叡山との対立などの波乱を乗り越えつつも
生涯にわたって精力的な活動を続け、
今日至る日本の曹洞禅の基盤を築いたのでした。

正法眼蔵とは

読み方は"しょうぼうげんぞう"。

道元の著作の中でも最も有名と思われる書物で
アップルの創業者スティーブ・ジョブズや
ドイツの哲学者、ヤスパースなども
影響を受けたと言われています。

75巻にも及ぶ未完の大著であり、
そこには教えを言葉で表現することを重視した
道元の思想の真髄が反映されています。

一方で、その膨大な巻数に加え、
抽象的で難解な記述が多く、
前提知識のない人が気軽に手を出すには憚られる
「高い壁」であることもまた事実です。

また、正法眼蔵から重要な点を抜粋したものとして
修証義(しゅしょうぎ)があります。

放てば手に満てり

<出典 : 正法眼蔵 弁道話>

(現代語訳)
手放すことによって、大切なものが手に入る。

道元は正法眼蔵で繰り返し
座禅を組むこと、座禅を通じて
「執着を捨てる」ことの重要性に触れています。

俗世に生きる我々は日々、良い学校、良い仕事、
良い友人、良いパートナー、良い家庭など
様々な物事に対する執着を抱えて生きているわけですが、
現実問題として、願った全てが手に入るわけではありません。

しかし、心が執着に支配されていると、
望む気持ちが段々と「手に入れなくてはならない」や
「手に入れられなければ自分ではない」
といった強迫観念めいたものに変わっていきます。

そして、いよいよこれらが
自分の手に入らないことが決定的となると深い苦しみを覚え、
悪くすると反社会的な行動や自殺、引きこもりといった
ネガティブな反動を生み出し、
自分だけでなく周囲をも巻き込んで不幸にしてしまうのです。

そうなってしまわないためにも重要なのが
この「放てば手に満てり」の思想なのです。

あれもこれもと欲しがる前に、
本当にそれは自分にとって必要なのだろうか、
それがなければ本当に
自分は幸せになれないのだろうかと考えてみる。

そして、なくても良いと思えたものは
思い切って手放してみると
驚くほど心が軽くなることがあります。

あれもしなくてはならない、
これもしなくてはならないと
日々の生活に息苦しさを感じ窒息しそうになっている方は、
ぜひこの「放てば手に満てり」を心の中で何度も口ずさみ、
余計な執着を捨てることから始めてみてください。

參禪は身心脱落なり

<出典 : 寶慶記>

(現代語訳)
坐禅とは自意識を手放すことである。

この語は道元禅師が留学僧として修行していた
宋の天童山・如浄禅師の言葉であり、
道元禅師自身が悟りの機縁を得た重要な言葉です。

私たちの多くは親や教師から
「自分の考えを持ち」「自分の目標をはっきり立てて」
生きるよう推奨されて育てられてきました。

ですがそれはいわば自分を
「こうであらねばならない」と規定する
「自意識的な生き方」であり、ややもすると
自分と違う生き方を認められない狭量さや
一度の失敗で二度と立ち直れなくなる
打たれ弱さにも繋がりかねない
危険と隣り合わせの考え方です。

夢や目標を持つ、というと聞こえは良いですが
現実問題として、全ての人が
自分の理想通りの人生を歩めるわけではありません。

やりたいことがあっても自分の適性と合わなかったり、
産まれた時代や場所がそれを拒んだり、
時には自分に全く落ち度のない不幸に巻き込まれて
道を諦めなければならないこともあります。

もしあなたがこうした理想と現実のギャップに
苦しみ続ける日々から抜け出したいと望むのであれば、
この「身心脱落」の語が示すように自意識を手放し、
その上で自分の力でどうにもならない事柄には執着せず、
今置かれている状況の中で最大限の楽しみを見出す生き方を
心がけることが肝要となるでしょう。

一華開五葉、結果自然成

<出典 :正法眼蔵 空華>

(現代語訳)

一つの花とは何かといえば、それは5枚の花びらが開いたことであり、
5枚の花びらが開くならば花が咲き身を結ぶという事象も自然に生じる

正法眼蔵の空華の冒頭にて道元禅師は
達磨大師の「一華開五葉、結果自然成」
という言葉を引用しています。

抽象的な、解釈の難しい言葉ですが
いくつか調べたところによると一般的には
「物事の結果というのは人知の及ばないところにあるのだから
精一杯やったのであれば、あとの結果は自然(じねん)に任せて平常心でいなさい」
といった解釈がなされる言葉であるそうです。

確かに、生きていれば
仕事や日々の生活の中で
懸命に努力したのに結果が伴わない
なんてこともザラですよね。

そんな時、
「こんなに頑張ったのになぜ上手くいかないんだ!」と
怒ったり落ち込んだりするか、
それとも「まぁ、そういう時もあるよね」と
すっぱり割り切れるかどうかが
その人の分かれ目であるように思います。

特に、うつ病の方の場合は
前者の傾向が強い傾向にあるように思うので
自分にその気配があると感じたら
一度この「結果自然成」の精神に立ち戻ってみましょう。

努力は大事だけど、
最後にはなるようにしかならないんだよと
自分を責めない方向に考え方を切り替えてみることで
幾分と心が軽くなるのではないでしょうか。

志の至らざることは無常を思わざるに依るなり

<出典 : 正法眼蔵随聞記>

(現代語訳)
志が実現できないのは、人生の残された時間が刻一刻と減っていることを自覚できていないからだ。

弟子たちが道元禅師の没後に
その語録や問答集をまとめた
正法眼蔵随聞記に見られる道元禅師の言葉。

この言葉を初めて目にした時、
私はまるでそれまでの
自分の生き方を見透かされたような、
強い衝撃を受けたことを覚えています。

二度とないこの日、この瞬間を
自分は精一杯生きてきたと胸を張って言えるだろうか?
もし、明日死ぬとしても悔いはないだろうか?

心が易きに流れそうになるたび、
私を叱り、勇気づけてくれる
ありがたい言葉です。

仏道の参学、かならず勤学すべし、転疎転遠なるべからず。光明を学得せる作家、まれなるものなり。

<出典 : 正法眼蔵 光明>

(現代語訳)
釈尊の教えを勉強するに当たっては、必ず一所懸命勉強しなければならない。
時間が経つにつれおろそかになると言うのではいけない。
こういう努力をして仏の光明を勝ち得た(仏教界の)指導者はそう多くはない。

道元禅師は「正法眼蔵」の「光明」にて
中国唐代の僧、長沙景岑(ちょうさ けいしん、788年 - 868年)禅師の
「尽十方界一人として是自己に非ずということなし」という言葉を取り上げ、
(我々にとってこの世の全てのものが身内であり、無関係なものなど一つもない)
それに続く形で上記の言葉を記しました。

長沙景岑禅師の生きていた時代でも
本当の意味で仏の道に入れた人物は少なかった。
そのためには今も昔も弛まぬ努力が不可欠であると。

どんな立派な人も、
最初は何もないところから
小さな努力を重ねていった結果として
今の立場があるわけですから、
私たちにも絶望などしている暇はありません。

どんな小さなことからでも
まずはやり始めてみて、
やり始めたならば次は
それを継続して習慣と為すことが大切なのです。

須く回向返照の退歩を学すべし、心身自然に脱落して、本来の面目現前せん

<出典 :普勧坐禅儀>

(現代語訳)
内なる自己の心に回らし返して、
本来の自己の根本に戻ることを学ぶべきである。

道元禅師が
1227年に中国から帰国後初めて著した宗教書である
普勧坐禅儀からはこちらの一語を。

前後の文脈を踏まえて、もう少し補足すると、
「なんでも頭で考えてわかろうとするのをやめて、
自己の生命の本質に立ちかえるべきである」
といった意味合いでしょうか。

私がこの言葉で連想したのが、
周囲の影響によって刷り込まれる
人やもの、場所などに対する先入観です。

家族や友人が、あるいは
テレビ番組で有識者や有名人やこういっていたから
あの人やあのものは良い、または悪いんだと
実際に自分で体験して
確かめることもせずに決めつけてしまう。

外部の意見を参考にすること自体は
悪いことではないのですが、
一方で人の意見ばかり気にして
自分の素直な感覚を蔑ろにすることは
自分の主体性を人に売り渡す
危うい生き方であるように思えます。

犯罪や危険に関することでない限りは
どんなことも又聞きの情報だけで判断せずに
まずは自分の目で見て肌で感じてから決めてみる。

言葉にすると簡単なようですが、
メディアやネットを通じて
日々過剰な情報に晒されている私たちにとっては
これが段々と容易ならざることと
なってきているように思えるのです。

古仏心といふは、粥足飯足なり

<出典 :正法眼蔵 発菩提心>

(現代語訳)
古くから伝わる仏心というものは、粥を啜り、ご飯を頂くことの中にある。

仏心というものは
得体の知れない超能力のようなものではなく、
粥を啜り、ご飯を頂くような
日常の生命の働きの中にこそあるのだという言葉。

私も自分で自炊をするようになってから
強く意識するようになったのですが、
人間生活の基本はやはり食事です。

血肉から爪、皮膚、髪の一本一本に至るまで
私たちの身体は私たちの食べたものからできており、
それを自覚することで自分もまた
この世界の一部であるということへの
気づきを得ることができます。

普段、ながら見しながら食事を摂っている人は、
たまにでも食事中はスマホやテレビの電源を消して
ただ食べることだけに集中する時間をもつようにすると
日々の生活の中で忘れていた生命の神秘に
想いを馳せる事ができるかもしれません。

人物身心の無常なるこれ仏性なり

<出典 :正法眼蔵 仏性>

(現代語訳)
この世のあらゆるものは無情であり、無常とは仏性である。

無常は諸行無常という言葉から
その意味をイメージしやすいですが、
では仏性とは一体何でしょうか?

一般的にすぐ思い浮かぶのは
「誰もが仏性を持っておりだからこそ誰もが仏なのだ」という方便ですが
道元禅師の仏性の捉え方からするとこれは誤りであるようです。

道元禅師は正法眼蔵の仏性の章で
仏性は持っていたり持っていなかったり、
あるいは外からやってきたりするようなものではないと説いています。

衆生もとより仏性を具足せるにあらず、たとひ具せんともとむとも、仏性はじめてきたるべきにあらざる宗旨なり。

悉有の言は、衆生なり、群有也。
すなはち悉有は仏性なり。
悉有の一悉を衆生といふ。 
正当恁麼時(正にそのような時)は、
衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。

つまり、この世のあらゆるものが仏性であり、
あらゆるところにすでに顕れているのだと。

そして…
全てのものが仏性であるからこそ
全てのものは仏性 = 自然の法則から逃れることはできず、
いずれ必ず滅びなければならないという宿命を背負っています。

これを書いている私にも
読んでいるあなたにも
平等にいつかは必ず死は訪れるし、
それはもしかしたら
明日のことかも知れません。

ですが、だからといって
死や老いからくる自分の変化から目を背けたり
いつまでも健康で生きていたいという願望にしがみ続ければ
かえって人生が苦しくなってしまいます。

真の幸福とは、そういった変化の末に
築き上げていくものではないでしょうか。

善悪は縁に随って起こる

<出典 :正法眼蔵随聞記>

(現代語訳)
人の善悪とは周囲との縁によって決まるものだ。

ものの見方や考え方、善悪の基準など
私たちは日頃知らず知らずのうちに
周囲の環境から大きな影響を受けています。

子は親の姿を真似して育ち、
部下は上司の姿を真似して育ちます。

ゆえに、もしあなたが
人を育てたり教えたりする立場にあるならば、
自分が手本になるのだという
責任感を持って当たらなければなりません。

一方で、逆にもしあなたが
周囲から悪い影響受けていると感じているならば
そんなところからは一刻も早く離れるべきです。

「朱に交われば赤くなる」。

私たちは、善良な人、
幸福な人、おおらかな人と付き合うことで
自分自身もそのようになれるのです。

そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり。

<出典 :正法眼蔵 発菩提心>

(現代語訳)
その姿がみすぼらしくても、この心を起こせば、まさしくに一切衆生の導師なのだ。

本日最後に、
正法眼蔵の発菩提心よりこちらの一語を。

発菩提心とは、
自未得度先度他(じみとくどせんどた)の心を起こすこと。

自未得度先度他とは、
自分が救われる前に、
まず他者を救われるようにするという
坐禅修行者の心得を端的に示したものです。

そして道元禅師は
結果の有無に関わらず、
そのように心(菩提心)を起こした時点で
姿形に関わらず、誰でも信頼すべき
優れた指導者となるのだと述べています。

つまるところ、自分よりも
他者を優先する生き方を勧めるものですが、
ご存じのように人間は基本的に利己的な存在であり、
私を含め、それを常に実践できる人は
滅多にいないように思います。

ですが…
私たちの一人ひとりが
この自未得度先度他の生き方を心がけ、
他者を排除したり無視したりすることをやめれば
やがてはこの世から差別やいじめを
なくすことすらできるかもしれません。

仮にそこまではいかなくとも、
自分が率先して規範を示すことで、
周囲に良い影響を与え、
文字通り人々を「導く存在」となれるでしょう。

どう転んでもたった一度きりの人生なら
せめて悔いのないように生きてみたいものですね。

おわりに

いかがでしたでしょうか。

今回は、取り上げた言葉に対し、
なるべく一般的にそうだとみなされている解釈を
選んで採用するようにしましたが、
これが本当に道元に言わんとしたことだったかどうかと問われると
正直自信を持ってイエスとは言い切れません。

当記事を読んで、
道元の思想に興味が湧いたのであれば
是非ともご自身で原書…は大変だと思うので
まずはたくさん出ている解説書など読んでみて
理解を深める機会を得ることをお勧めします。

それでは、またのご機会に。

参考資料

http://dogensanghanihon.web.fc2.com/syobo36komyo-1.htm
https://eiheizen.jimdofree.com/%E5%AE%9D%E6%85%B6%E8%A8%98/

http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/06.htm
http://photo-tetujin.sblo.jp/article/93405853.html

https://blog.goo.ne.jp/fugetu3483/e/f75ade3e22db8674ba2798e5ee992778
http://sybrma.sakura.ne.jp/151hukanzazengi.html


https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/1/16281/20141016124725386192/KJ00000723446.pdf

http://www.fuanclinic.com/owl/vol_63e.htm
http://www.dogen-shobogenzo.com/hotubodaisin1.html

道元禅師の教え – 曹洞宗 龍谷山 東雲寺
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