科学の力で解明された世界の”元”未解決事件4選

ホラー・恐怖系

はじめに

こんにちは、daimaです。
本日は科学によって真相が明らかにされた
世界の興味深いミステリーを
4つみなさまにご紹介します。

扱うのは
ツングースカ大爆発
マヤ文明滅亡の原因』
『稀代の悪王 リチャード三世の真実』
『デスヴァレーの動く石』
の四編。

それではお楽しみください。

ツングースカ大爆発

開戦前夜の世界を震撼させた原爆の300倍以上の大爆発

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▲爆発発生から19年後の1927年にクーリック探検隊によって撮影された爆心地の写真photo by wikipedia

日露戦争終結後間もない1908年の6月8日。

シベリアの荒涼とした大地が
突如として巨大な爆炎に包まれました。

後に推定されたその威力は
TNTに換算して5-15メガトン。

仮に5メガトンだったとしても
広島原爆(約15キロトン)の335倍という
想像を絶する破壊力があったことになります。

その衝撃は爆心地の木々を尽くなぎ払い、
後にツングースカ・バタフライと命名される
羽を広げた蝶を横から見たような形の
全長70kmに渡る巨大な傷跡を大地に残しました。

ツングースカ大爆発の余波は
1,000キロ離れた家の窓を割り、
遠く離れたイギリスのロンドンでも
夜中に明かり無しで新聞が読めるほどの
明るさが数日にわたって観測されています。

人知を超えた自然現象か
はたまた神の怒りか。

かくしてこの事件は以後
100年以上に渡って
様々な議論を巻き起こすことになるのでした。

浮かび上がる様々な仮説

彗星・小惑星爆発説

ツングースカ大爆発の原因を
宇宙から飛来した彗星の爆発であるとする説。

彗星は主に氷と塵で構成されているため、
大きな爆発を起こしても本体が蒸発して
破片を残さない性質があるのです。

まるで良くある探偵もののトリックですが
他に決め手となる痕跡がなかなか見つからなかったこともあり
この説は長い間最も有力な説とされてきました。

ガス噴出説

2008年にボン大学の物理学者
ヴォルフガング・クントが提唱した、
地下に溜まったメタンを含む1000万トンのガスが
一気に地上に噴出した結果だとする説。

ニコラ・テスラの実験説

ツングースカ大爆発と同時代に生きた
天才科学者ニコラ・テスラ
実験による爆発だとする説も囁かれました。

宇宙人のUFO爆発説

地球に墜落したUFOに積まれた核爆弾が
ツングースカで爆発したとするトンデモ説。

元はロシアのSF作家
アレクサンドル・カザンツェフが
自身の小説「爆発」で
この説を発表したことから広まりました。

しかしながら
後のKSE(総合自主探検隊)の調査により
現地に残留放射線が存在しないことが確認され
この説はあえなく否定されることとなりました。

2013年…ついに原因が判明

2013年。事件の発生から
実に105年が経過したこの年に、
ウクライナ、ドイツ、米国の科学者のグループによる
調査報告が真相究明を大きく進展させました。

彼らはツングースカ
大爆発が起きた年の地層から、
隕石が衝突した時に形成される
六方晶ダイヤモンドを含む
炭素鉱物の集合体を発見したのです。

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▲六方晶ダイヤモンド。正式名称はロンズデーライトで、隕石に含まれるグラファイトが衝突時の熱と圧力で変性して生成されるphoto by geologyin

さらにその六方晶ダイヤモンドの断片には
やはり隕石などの宇宙物質に含まれる
トロイリ鉱やテーナイトといった
小さな含有物が含まれていることが確認され、
ここにツングースカ大爆発の原因が
隕石の衝突であることがほぼ
確定的となったのでした。

さてみなさんはこの事実を知って
どう感じられたでしょうか。

もし、これと同じ隕石が、
今、シベリアの僻地ではなく
私たちの頭上に落ちてきたら?

もしそうなっても
逃げ場も防ぐ手段もありません。

宇宙からの一方的な脅威に対して
今の所私たちにできることは
次に自分の頭に隕石が落ちてこないことを
願うことだけなのです…

参考資料

ツングースカ大爆発 - Wikipedia
「ツングースカ大爆発」の原因、解明される|WIRED.jp

天体衝突 (ブルーバックス)

天体衝突 (ブルーバックス)

マヤ文明の衰退

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▲かつて古典期マヤの大都市があったグアテマラティカル国立公園photo by wikipedia

栄華を極めた古代文明に隠された謎

かつて恐竜を滅ぼした
巨大隕石が墜落した場所と考えられている
メキシコのユカタン半島

その後鬱蒼としたジャングルが生い茂る
熱帯地域となったユカタン半島
今から遡ること1400年ほど昔、
ある一つの古代文明が存在していました。

その文明の名はマヤ。

メキシコ各地に残る数々の遺跡や
2012年12月21日に人類が滅亡するという
マヤの予言で有名なあのマヤ文明です。

しかしながらマヤの凄さは
建築や予言だけにとどまりません。

その際たるものは
有名な建築物『マヤの天文台
に代表される天文学の発展でしょう。

マヤの遺跡には月の満ち欠けの周期表
惑星の運行周期を表す
数々の天文記録が残されており、
中でも占いや宗教儀式に利用された
ツォルキン暦やハアブ暦などのマヤ暦は
その誤差が一万年にたった一日という
現代の私たちが日頃使っている
グレゴリオ暦ですら全く比較にならないほどの
驚異的な正確さで有名です。


▲マヤ・カレンダーのレプリカphoto by Amazon

他にも例えば農耕の面では
貯水池やダム、堤防などによる
計画的な水資源の管理、運用が
なされていた形跡が確認されており、
トウモロコシや唐辛子、
タバコなどの栽培が盛んに行われていました。

また学術面の進歩も著しく、
複数の文字素からなる独自の文字(マヤ文字)を持ち、
さらにインド・中東・ヨーロッパを除いて
初めて0の概念を確立して
これを暦の研究や建築に
利用していたことがわかっています。

さらにマヤ文明はチョコレートとも関わりが深く、
少なくなくとも紀元前600年には
カカオを加工してお祝いや儀式のための
特別な飲み物を作っていたことが知られています。
(ただしその味は私たちがチョコレートと聞いて
想像するような甘いものではなく
どちらかというとスパイシーな
味わいのものだったようです)

文明の必須条件である
大河のほとりという条件から外れた
熱帯のジャングルの中という
過酷な環境の中にあって
これだけの文明を築き上げ、
500年以上という永遠にも思える
栄華を極め続けたマヤ文明

しかしながら9世紀に入ると
それまで繁栄を謳歌していた
低地南部の都市が次々に放棄され、
拠点をユカタン半島北部に拠点を移していきます。

いったいこの時期に
何が起きたというのでしょうか?

急速な繁栄が仇に…

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マヤ文明の衰退の最大の原因は
9世紀から約200年に渡って続いた
極度の干ばつでした。

2012年にアメリカの古気候学社
ダグラス・ケネットらのグループが
マヤ文明圏中心部のベリーズ南部の洞窟で
2000年以上成長し続ける石筍を発見し、
これを分析することで当時この地域に
異常な降雨パターンが
発生していたことを示したのです。

この干ばつとそれ以前の
人口の爆発的な増加が重なったことで
マヤの貯水システムが機能不全に陥り、
急速に国力が弱まったところに
都市間の争いや支配者階級の
反乱などの諸要因が重なって
最終的にマヤの人々は住み慣れた土地を
捨てざるを得なくなったものと考えられています。

天空の神に捧げる生贄

人間の知恵ではどうすることも出来ない
自然の猛威に襲われたマヤの人々が最後に頼ったもの。
それは彼らが長年信じてきた自然の神々でした。

万策尽きたマヤの人々は
神の怒りを鎮めるために
生きた人間の血と心臓を捧げたのです。

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▲チチェン・イッツア遺跡から出土したチャック・モール石像。横たわる石像の上に皿が置かれており、ここに摘出された生贄の心臓が置かれたphoto by Wikipedia

生贄に選ばれた人間は神殿の頂上で
マヤブルーと呼ばれる鮮やかな顔料を体に塗られて
台座の上に横たわり、執行人の振るう
刃物でその体を切り裂かれ、
脈打つ心臓を取り出されました。

こうした場面は想像するだけでも
身の毛がよだつ恐ろしいものですが
しかしながら生贄に捧げられることは
マヤの人々にとってむしろ名誉であったらしく
生贄は主に戦争で捕虜になった
高貴な身分の人間や今も競技場跡が残る
マヤ独自の球技の勝者の中から
選ばれていたと見られています。

文明の最期

その後のマヤは
アステカの台頭などの変化を経て
さらに数百年の間存続し続けましたが、
それも16世紀にスペインの
侵略者たちが上陸するまでのことでした。

長らく外部の文化との
交流を持たなかったアステカ人は
未知の道具(鉄器や馬、火薬など)を操り、
疫病を撒き散らすスペイン人達に
なすすべもなく蹂躙され、
特にサルモネラ症の蔓延は
500万から1500万人もの
アステカ人の命を奪ったと見られています。

そして1697年、
最後まで自立を保っていた
ペテン盆地のタヤサルが陥落し、
ここに1000年続いたマヤの文明は
完全に消滅するに至ったのでした。

日本も他人事ではない?

マヤ文明の滅亡からは
周囲から隔絶されガラパゴス化した文明が
外部からの侵略に対して極端に
脆弱になるメカニズムを読み取ることができます。

独自の言語、文化を持ち
陸続きの外国を持たない
私たち日本人こそ、彼らの滅びから
学ぶことがあるのではないでしょうか。

参考資料

マヤ文明の衰退を早めた干ばつ | Nature ダイジェスト | Nature Research
Classic Maya collapse - Wikipedia
2012年人類滅亡説Ⅴ~ツォルキン暦と占い~
15 Facts About the Maya Civilization | Mental Floss
https://www.tuins.ac.jp/~satoh/n_w_a2002/n_w_a2002_6-2.htm
【學藝随想 第51回】 マヤ文明の衰退の原因は何か | 田中英道ホームページ
アステカ人の大量死、原因はサルモネラ菌か | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

古代マヤ・アステカ不可思議大全

古代マヤ・アステカ不可思議大全

悪名高きイギリス王 リチャード三世の素顔

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photo by Wikipedia

シェイクスピア最高の悪役

「腕は萎え、足を引きずり、背中には大きな瘤」

「冷酷残忍で権力欲が強く、
自らが王位に就くために
幼い二人の甥をロンドン塔に幽閉して殺害した」

「しかしその栄光もつかの間、
リチャードは自分が殺した者の
亡霊に夜な夜な苛まれる日々を送り、
最期は仲間に裏切られボズワースの戦いで
ヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)に討たれる」

薔薇戦争(1455〜1458)の末期に登場した
イギリス国王リチャード3世のこうした人物評は
彼を主役としたシェークスピアの戯曲
『リチャード3世(1593)』によって世に定着し、
長らく悪人の典型として語られてきました。

リチャード三世 (新潮文庫)

リチャード三世 (新潮文庫)

しかしながら欧米ではこうした通説に対し、
リチャード3世が実は寛大な賢王で
件の悪評の数々は後継王朝であるテューダー朝
自分たちの正当性を流布するために広めた
プロパガンダであったとする反論も根強く、
その素顔は長らく謎に包まれたままでした。

駐車場での大発見

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▲発掘の様子photo by Youtube

2012年8月、ロンドンから電車で
北に1時間ほどの位置にある
レスターという田舎町で
ある歴史的な大発見がなされました。

町の駐車場の一角から
リチャード3世の遺骨が発見されたのです。

発見したのはリチャード3世の
名誉回復を望む熱心な歴史ファン(リカーディアン)と
彼らの要望で動いたレスター大学考古学部の合同チーム。

彼らはこの駐車場が
かつてリチャード3世が埋葬された
グレイフレイヤーズ修道院の跡地であることを突き止め、
見事リチャード3世の遺骨を掘り当てたのでした。

その後遺骨はレスター大学で
ミトコンドリアDNA鑑定にかけられ、
リチャード3世の姉の子孫の
DNA情報との照合を受けて
間違いなくリチャード3世その人の
ものであることが断定されています。

遺骨から推測される壮絶な最期

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▲発掘されたリチャード3世の頭骨。後頭部に武器が貫通した巨大な穴が空いているphoto by CNN

発見されたリチャード3世の遺骨からは
彼が風聞通りひどいせむしであったこと、
そして頭部を中心に11箇所もの
損傷を受けて亡くなっていたことが判明しました。

それらの傷からはリチャード三世が
戦闘の最中に落馬して複数の敵に囲まれ、
なんども切りつけられた末に
最後は左頬から後頭部までを貫通する
長槍の一撃を受けて即死に近い形で
死亡したものと推測されています。

また同様に埋葬時の状況も明らかになり、
死亡したリチャード3世はその後
馬の背に放り上げられて修道院まで運ばれ
手を縄で縛られたまま
狭い墓穴に無理やり押し込めるように
埋葬されるという王に対するものとは思えない
乱雑な葬り方をされたものと考えられています。

一時は王の座につくも
土壇場で味方の裏切りにあい、
最後まで自ら武器を取って勇敢に戦いながら
死後はその名誉を著しく
貶められ続けたリチャード3世。

その報われない生涯を思うと、
今回遺骨が発見されたのも彼の無念さが
時を超えて実った結果だったのでは無いかと
勘ぐりたくなってしまいますね。

参考資料

通説を論破する快感に痺れる:情熱の本箱(64) | ほんばこや
リチャード三世は邪悪な「ヒキガエル」ではない シェイクスピアに歪められた汚名をいま返上する - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
https://www.japanjournals.com/feature/survivor/6932-151001richard.html
CNN.co.jp : リチャード3世、遺骨から浮かび上がる壮絶な最期 - (1/2)

デスヴァレーの動く石

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▲動く石。その後ろには石の動いた軌跡が延々と続いているphoto by Wikipedia

メガネがない、傘がない、
財布がない、ケータイがない。

普段身につけているものが
急に見つからなくなると
『足が生えて歩いて行ったのかも』
なんて冗談めかして話す事がありますが、
アメリカのカリフォルニア、デスヴァレーには
『動く石』なんてものがあるそうです。

『滑る石』『航海する石』
とも呼ばれるこの石は
1915年にその存在が記述されて以来、
人々の興味を惹きつけ続けてきました。

砂の上には
石が動いた後がはっきり残っているのに
誰もそれが動くところを見たことがない。

石の中には数kgの重さのものもあり
風の力だけで動くとは考えづらい。

さらに石は数年に
一度程度の間隔でしか動かず、
また石によって動く方向や距離も
バラバラであり、その原理は
長らく謎のままでした。

科学調査で原因が判明

石が動く原理について一向に答えが出ず、
地磁気説、風説、はたまた
宇宙人が動かした説など
様々な憶測が飛び交う中、2013年に
生物学者のリチャード・ノリス氏が率いる
米国のスクリップス海洋研究所が
ついにこの謎に答えを出しました。

石を動かしていた犯人、それは
なんと薄く脆い窓ガラスのようなだったのです。

2011年、デスヴァレーに気象観測所を設置し
岩に位置観測のためのGPSユニットを設置した
ノリス氏らはそれから2年後の2013年のある日
ついに岩が動く瞬間に立ち会います。

そしてノリス氏らがそこで目にしたものは
前日のうちに降り、石の周りにたまっていた雨水が
夜の冷え込みで氷結し、さらにそれが
夜明けの日光で溶けて割れ、
その後風に押されて石ごと
分速5メートルほどの速度で
地表の上を移動する様子でした。

以上の説明は少々煩雑ですので
分かりやすいように時系列順にしてみましょう。

  1. 雨が降って石の周囲に水が溜まる
  2. 1の水が夜の冷え込みで氷結する
  3. 日が昇ることで氷が融けて割れる
  4. 割れた氷が風に押されて地表の上を移動する
  5. 4の氷が同時に石を押して移動させる

これはゴルディロックス現象と呼ばれる自然現象で
気温や風速、降水量など絶妙な条件が重なっ
て初めて起きるまさに自然の妙技です。

実際にねばり強い調査を続けなければ
決してたどり着けなかったであろうこの真実。

地球にはまだまだ私たちの知らない
神秘的な一面が隠されているのだと思うと
なんだかワクワクしてきますね。

参考資料

デスバレーの動く石、謎を解明 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
Mystery of Death Valley's Moving Rocks Solved - Seeker
Six Mysteries Solved By Science | IFLScience

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