史上最悪のローマ皇帝は誰だ?
帝政開始から東ローマの滅亡まで、
実に1500年近い歴史を持つローマ帝国。
しかし、その輝かしい栄光の影には
少なくない暗君・暴君が存在していたこともまた事実です。
ある者は神を自称して年に数兆円規模の浪費を繰り返し、
ある者は自分の陰口を叩いたという理由で数万人を虐殺し、
またある者は猜疑心に取り憑かれて周囲の人間を次々に処刑し…
現代の感覚からすると
俄には信じ難いこれらのエピソードですが、
しかしよく調べてみればその裏には
権力を巡る人間同士の争いや皇帝個人のトラウマ、性癖など
現代にも形を変えて存在する普遍的な要素が多くみられ、
その中から現代のわたしたちが
複雑怪奇なこの生に対してどう向き合っていくかという
ヒントを見出すことも可能であるかと思います。
そのようなわけで本日は、
「教科書には載せられない史上最悪のローマ皇帝ランキングワースト5」と題しまして、
教科書に載せられないくらいギリギリなエピソードを持つ5人の皇帝たちを
独断と偏見によるワーストランキング形式でご紹介させていただきます。
選出のポイント
今回は主に以下の5つの観点から順位付けを試みました。
- 知名度 → 後世における暗君としての悪評の高さ
- 残虐度 → 読んで字の如く
- 無能度 → 政策における失敗の多さ、大きさ
- 迷惑度 → その皇帝がいたことで国家や国民に生じた被害の度合い
- 変態度 → 読んで字の如く
この中でも特に重視したのは
国の盛衰に直接関わる無能度と迷惑度であり、
例えば国民の大量亡命を招いて国力を落としたり、
政策の失敗で経済を疲弊させたエピソードのある皇帝は
優先してランキング上位に配置しています。
また、暗君としての知名度も重視はしますが、
それまで長らく暗君の代名詞として扱われていたものが
時代が進んだことで評価が覆ったり、別の説が有力になったケースも結構あり、
そのような場合は悪評価に一定の手心を加えるものとしました。
さて、それでは、
そろそろランキングのほうに行ってみましょう。
ワースト5位 :暴君といえばこの人、第5代ローマ皇帝『ネロ』
知名度 : ★★★★★
残虐度 : ★★★★☆
無能度 : ★★★☆☆
迷惑度 : ★★★☆☆
変態度 : ★☆☆☆☆
ネロのここがヤバい!
- 母親のアグリッピーナと権力争いを繰り広げた挙句にこれを殺害する。
- 他にも皇帝暗殺を企んだとして元老院議員を次々と処刑。
- 幼少時代に家庭教師だったセネカや外交を支えたコルブロらにまで自殺を命じた。
- ローマの大火の責任をキリスト教徒に押し付けて迫害。
- 芸術好きが高じて劇場で皇帝自らの独唱会を開くもあまりの退屈さに逃亡者が続出。
- あれやこれやの結果で元老院に憎まれすぎた挙句「国家の敵」認定され、内乱を起こされる。
- 内乱後逃亡先の別荘で自殺。享年31。
本日一人目、ワースト5位に選出したのは
第五代ローマ皇帝ネロ(Nero 37年12月15日 - 68年6月9日)です。
暴君としてあまりにも有名なネロ帝ですが、
一方で近年ではその政治手腕を高く評価する声も少なくありません。
暗君と明君。
二つの顔を持つ皇帝の
本当の顔は一体どちらだったのでしょうか。
母アグリッピナの計略
ネロについて語る上で
避けて通ることができないのが
母アグリッピナの存在です。
かの暗君、第三代皇帝カリギュラの妹であったアグリッピナは
とても賢く、野心の強い女性でした。
皇族のドミティウスとの間にネロをもうけたアグリッピナでしたが、
しかしその数年後に夫が急死。
さらに当時皇帝だった兄のカリギュラによって
夫の遺産を没収された上でネロ共々ローマ外へ追放されるという
不運に見舞われたのですが、カリギュラが暗殺されるとローマに戻り、
なんと次期皇帝クラウディウスの皇妃の座にまで返り咲いています。
そして、皇妃の座についたアグリッピナの次なる目標は
皇帝の母となることでした。
そこでアグリッピナは計略をめぐらし、
ネロをクラウディウスの養子にすることに成功。
その後クラウディウスがなくなると、
もう一人の候補だったブリタンニクスを出し抜いて、
西暦54年にとうとう、当時16歳のネロを
五第ローマ皇帝の座につけるという悲願を果たしたのでした。
母との確執、そして…
首尾よく息子を皇帝の座につけたアグリッピナは
自分は皇帝の母として影からネロを支えました。
政治にあれこれ口を出したり、
ネロに優秀な家庭教師(セネカ)をつけたり…
こうした尽力もあってか、
ネロの統治も最初のうちは比較的うまくいっていたのですが、
しかし1年も経たないうちに、ネロは母のこうした過剰な干渉を
疎ましく思い、次第に避けるようになっていきます。
そして55年、二人のその後を決定づける事件が起きました。
アグリッピナが、いうことを聞かなくなりつつあった
ネロに代わって目をつけていたかつての皇帝候補、
ブリタンニクスが急死したのです。
状況から見て、何者かによる暗殺の可能性が濃厚。
そしてブリタンニクスが消えて
最も得をするのは他ならぬネロ…。
この時の二人の反応は想像するほかありませんが、
かなり一触即発の状況になったようです。
とはいえ、この時点ではそれ以上のことは起きず、
二人の関係はギスギスしたまま時が流れたのですが、
それから4年後の59年、とうとうネロがアグリッピナを殺害してしまいます。
理由はアグリッピナがネロの結婚に口出しをしたことだとされていますが、
例えそれがなくてもこの親子ならば
遅かれ早かれこのような結果になっていたことでしょう。
そして、アグリッピナの殺害を機に、
ネロはその処刑の矛先を
自分に敵対する元老院議員たちへと向けていくこととなったのでした。
議員らの大量粛清とその結末
母アグリッピナの殺害後、
ネロはまるでタガが外れたかのように粛清を繰り返していきます。
皇帝の座を狙っていると疑われた人々や
皇帝に敵意を持っていると疑われた人々が大量に粛清され、
その中にはかつての家庭教師だったセネカや
元妻のオクタウィアも含まれていたとされています。
またネロにはしばしば芸術家を自称して
当時は地位の低かった芸人の真似事をしたり、
時には周囲にも芸を強要したりする悪癖があったのですが
それが誇り高い元老院議員たちにとっては極めて屈辱的なことでもありました。
そして、そうしたあれこれが積み重なった結果、
68年に元老院がネロを「国家の敵」とし、
属州総督のガルバを皇帝に擁立する事実上の内乱が勃発。
ネロは逃亡しローマ郊外の解放奴隷パオラの別荘に隠れましたが
最後には追い詰められ、自らその命を絶つ最期を迎えることとなったのでした。
まとめ
ネロ帝には東方に対する外交政策の成功や
在位中にローマ市内で起きた大火災の際に陣頭に立ち、
復興に尽力したことなど、評価できる点もありますが、
一方で歴史上初めてとも言われるキリスト教徒の迫害や
母アグリッピナの殺害、晩年の恐怖政治、
そして最後には内乱を許し、自殺に追い込まれたことを考えれば
それらのプラスもネロの暗君としての評価を
完全に覆すまではいかないように思います。
もっとも、「見方にによっては擁護の余地がある」時点で、
これから紹介するさらにアレな皇帝たちには遠く及ばないのですが…
ワースト4位 :性的倒錯の極み、第23代ローマ皇帝『ヘリオガバルス』
知名度 : ★★★☆☆
残虐度 : ★★☆☆☆
無能度 : ★★★★☆
迷惑度 : ★★☆☆☆
変態度 :★★★★★★★★★★
ヘリオガバルスのここがヤバい!
- 女物の服、金髪のかつらを着用して街に繰り出し市民(♂)を誘惑する。
- 自らを女性であると主張して当然のように女湯に入り他の女たちに愚痴を聞いてもらう。
- 並いる元老院議員たちの面前で皇帝自ら踊り子の衣装を着て神聖な踊りを披露。
- 側近の採用基準はアレのデカさ。
- 金髪の奴隷ヒエロクレス(♂)の「妻」となることを宣言。
- ヒエロクレス(♂)がヘリオガバルスの浮気をなじると自分が嫉妬され束縛されていると感じて絶頂。
- その他にも「ヘリオガバルスの薔薇」をはじめ変態エピソードには事欠かず。
- 最期は母親もろとも恨みを持つ市民からありとあらゆる辱めを受けなぶり殺しにされた末遺体をティベレに投げ込まれた。享年18
ワースト4位に選出したのは第23代ローマ皇帝、
ヘリオガバルス(Heliogabalus 203年3月20日 - 222年3月11日)です。
なんと言いますか、
上に羅列したエピソードの時点で既に
匂い経つような「やべーやつ」感が滲み出していますが、
ヘリオガバルスが他の暗君と比べて特異なのは
やはりなんといってもその特殊な性的嗜好です。
わずか14歳という若さで皇帝となったヘリオガバルスは
女性とみまごうばかりの美しい容姿の持ち主であったそうですが、
女性的なのはなにも外見だけの話ではなかったようです。
同時代を生き、元老院議員として
宮殿に出入りすることのできた歴史家のカッシウス・ディオは
ヘリオガバルスについてもいくつか記録を残していますが、
それによればヘリオガバルスはしばしば
金髪のかつらと女物の服で女装して酒場や浴場に出掛け、
そこで男を誘惑することを愉しみとしていたそうです。
またある時には、宮殿内で女装したまま
男性と交わる決定的な場面をディオが目撃したこともあったというから
ヘリオガバルスのそうした側面は
少なくとも宮殿周辺では早くから周知の事実だったのでしょう。
一方で女性に対してはヘリオガバルスは非常に寛容であり、
酒場や女湯(!)で他の女性と
女友達の様に愚痴を言い合っている姿が目撃されているほか、
ローマ史上初の女性上院議員を指名するという
当時としては異例と言える先進的な判断を行ったりもしています。
ヘリオガバルスのこうしたある種フェミニズム的な傾向は、
本人の性自認もそうですが、
若すぎるヘリオガバルスに代わって
実質的に権力を握っていたのが
祖母のマエサと母のソエミアスという
揃って女系の親族であったことも無関係ではないでしょう。
ヘリオガバルスの薔薇のエピソード
ヘリオガバルスに関する逸話の中でも特に印象的なのが、
その場面を描いたローレンス・アルマ=タデマの美麗な絵画によっても知られる
ヘリオガバルスの薔薇のエピソードです。
ヘリオガバルスが開いたある宴会(という名の乱◯パーティ)の最中に、
招待客の頭上に大量のバラの花を降らせて窒息死させ、
その様子を眺めて楽しんだというなんとも狂気的なエピソードですが、
その出典であるローマ皇帝群像には多くの虚偽や誇張が指摘されており、
このエピソードにもまた創作の可能性が指摘されています。
悪評に尾ひれがつくのは歴史の常ですが、
それにしてもこのエピソードが良く出来ているのは
話を聞いたときに頭の中に浮かぶ情景の
美しさと残酷さのコントラストの鮮やかさであり、
アルマ=タデマを始めとする構成の芸術家が
インスピレーションを刺激された気持ちも良く分かります。
ヘリオガバルスは本当に暗君だったのか?
こんなランキングに選出してしまった手前
言いづらいことではあるのですが、
個人的にはヘリオガバルスを暗君と断じてしまうのに
少々憚られる部分があったりもします。
なぜなら、ヘリオガバルスには
暗君と評価を下せるほどの
政治的実績がほとんどないからです。
当時、政治の実権は祖母のユリア・マエサと
母のユリア・ソアエミアスが握っていたとされており、
ヘリオガバルスはほとんどお飾り状態というのが実情でした。
もっとも皇帝となった以上はそれでも
その職務を果たす義務があったわけですが、
そもそもヘリオガバルスの場合は
その特殊なセクシュアリティのために
皇帝としては最初から完全に詰んでいました。
当時のローマ社会はストア派哲学に代表される
男らしさ、厳格さを重んじる男性主義的な社会であり、
ヘリオガバルスのような女性的な皇帝が
認められる余地など1ミリもなかったのです。
だからこそ、祖母から見切りを付けられて失脚した際にも
兵士の誰一人としてヘリオガバルスの味方になることもなく、
反乱軍に母と共に捕らえられた後には
散々侮辱を受けた末に〇〇〇を切断されて川に遺体を捨てられるという
これ以上ない無惨な最期を迎えることになってしまったのでしょう。
母や祖母の野心の道具として
そもそも本人が向ていない地位に就いてしまった事、
当時の社会的価値と真っ向からぶつかる個性を持って生まれてしまった挙句
わずか18歳で悲惨な死を迎えざるを得なかった事などを総合的に考えれば、
暗君の評価は免れられなくとも同情の余地は十分すぎるほどあった人だったかと思います。
ワースト3位 :人類共通の敵、第19代ローマ皇帝『カラカラ』
知名度 : ★★★☆☆
残虐度 : ★★★★★
無能度 : ★★★★☆
迷惑度 : ★★★★★
変態度 : ★☆☆☆☆
カラカラのここがヤバい!
- 政権争いをしていた弟を暗殺した上に「自己防衛のためだった」と嘯く。
- 弟に好意的だった貴族や元老院議員は全員粛清。
- 兵士の人気取りのためにばら撒く金が足りず、粗悪な貨幣を大量に発行した結果国内のインフレを加速させる。
- 属州の都市で自身の弟殺しを揶揄する詩が流行していることを聞きつけると誤解を解くという名目で市民を広場に集めてから兵士に襲わせて無差別大量虐殺する。
- 最期は暗殺。それも親族を無実の罪で処罰された近衛兵に立ちション中に背後から刺されて死ぬというあまりにもしょうもない死に様。
- イギリスの歴史家エドワード・ギボンから「人類共通の敵」と評された。
ワースト3位にはカラカラ浴場の建設でも知られる
第19代ローマ皇帝、カラカラ(Caracalla 188年4月4日 - 217年4月8日)を選出しました。
コンモドゥス以来の混乱を平定し、
セウェルス朝を開いたセウェルス帝の
長子として生まれたカラカラですが、
この人の凄いところは最初から最後まで
その生き様に全く同情すべき余地がないことです。
中でもその最たるものは、
血を分けた実の弟の暗殺です。
この時代、権力の座を巡る肉親同士の対立や暗殺は
それほど珍しいことではありませんでしたが、
あろうことかカラカラは母が用意した和解の場で
騙し討ちのような形で弟を暗殺してしまったのです。
さらに、カラカラの方から仕掛けたことは明らかな状況であったにもかかわらず
遅れて駆けつけた母に対して
「弟が先に襲ってきたので身を守るため仕方なかった」
などと姑息な嘘までつく始末。
ともあれこうして邪魔者を排除したカラカラは
ついでにそれまで弟に対して行為的だった
貴族や議員を根こそぎ粛清した上で
念願だった権力の座に就くこととなったのでした。
政策もダメダメ
権力の座を独り占めしたカラカラがまず最初に行ったことは、
父セウェルスの政策を引き継いだ、
軍事費の増額を始めとする軍事力重視の政策でした。
そして、増大した軍事費に対応するために
銀の含有率を下げた貨幣を大量に発行する貨幣価値の切り下げを行ったのですが、
これは帝国内の貨幣価値の全体的な低下を招き、
インフレーションを進行させる結果となってしまいました。
そしてもう一つは212年に発行された、
帝国内の全自由民にローマ市民権を与えるアントニヌス勅令であり、
ぱっと見身分間の差別を無くする素晴らしい政策です。
しかしながらその実態は
市民権に伴う納税義務の対象を増やすための税収増大策であり、
その上それまで特権であったローマ市民権が安売りされるようになったことで
市民権を得るために頑張るという目標が失われ、
ひいては国内の活力が失われるという
本末転倒の結果を引き起こすこととなったのでした。
君たち、俺の悪口言ったよね?
ここまででもだいぶお腹いっぱいな感じですが、
後世におけるカラカラ帝の悪評を確固たるものにしたのは、
やはり何と言ってもアレクサンドリアの大虐殺のエピソードでしょう。
ことの発端は、ローマの東方の属州都市であった
アレクサンドリアの街でカラカラが自分の弟殺しを
正当防衛だと主張したことを揶揄する詩が流行したことでした。
この情報を聞きつけたカラカラは
自らアレクサンドリアへと赴き、
それは誤解で、弁明の機会を持ちたいと提案。
皇帝らしからぬこの謙虚な対応に
興味を抱いたアレクサンドリアの人々は
広場に詰めかけ皇帝の登場を待ったのですが、
彼らが目にしたものは、カラカラに命じられた兵士たちが
自分たちを殺そうと雪崩をうって向かってくる光景でした。
そう、カラカラには弁明を行う気など毛頭なく、
はなから自分を侮辱した愚か者どもを
一網打尽にする計画だったのです。
この時のカラカラの殺戮は徹底したもので、
歴史家カッシウス・ディオの記録によれば
数日にわたってアレクサンドリアの市内を破壊して周り、
最終的に2万人以上の人々が犠牲になったとされています。
内乱の平定とかの大義名分もなく、
ただ陰口をたたかれたからという理由だけで
これほどの大虐殺を行ったのは
後にも先にもカラカラくらいのものではないでしょうか。
暴君の最後は…
このように暴虐のかぎりを尽くしたカラカラでしたが、
その最期は実にあっけないものでした。
遠征の移動中に立ち小便をしていた最中に、
近衛兵によって背後から刺されて暗殺されてしまったのです。
しかもその近衛兵というのが、
かつてカラカラによって親族を
無実の罪で処罰された過去があったというのだから
自業自得としか言いようがありません。
まとめ
残虐さ、無能さ、死に様のダサさ、及ぼした被害の大きさなど
どれをとっても隙のない完璧さで、
もっと上位に置くべきか最後まで迷った逸材でした。
ここまで一部の隙もないと逆に
良い部分を探してあげたくなってしまいますね。
ワースト2位 : 淫蕩、放蕩、処刑のフルコース、第3代ローマ皇帝『カリギュラ』
知名度 : ★★★★☆
残虐度 : ★★★★★
無能度 : ★★★★★
迷惑度 : ★★★★★
変態度 : ★★★★☆
※発病後基準
カリギュラのここがヤバい!
- 統治当初は名君で人気もあったが病気で生死の淵を彷徨った経験をきっかけに暗君に変貌。
- 宮殿を売◯宿化し淫蕩三昧の日々を送る。
- 実の妹が三人いたが、その全員と関係を持つ。
- 当時の貨幣価値にして数兆円の国費をわずか1年で浪費。
- 恐怖政治を敷き、皇帝を批判したものは容赦なく処刑。
- 自らを神と称し、市民に崇拝を強要。
栄えある(?)
最悪のローマ皇帝ランキングワースト1位の座を射止めたのは
第3代ローマ皇帝のカリギュラ(Caligula 12年8月31日 - 41年1月24日 第3代ローマ皇帝)です。
現代においても暗君の代名詞として
引き合いに出されることの多いこの皇帝ですが、
先に述べた逸話の数々を眺めてみれば
その評価もさもありなんといったところですね。
ですがこのカリギュラ、
最初から暗君だったわけではなく、即位してから
しばらく(といっても数ヶ月の間でしたが)の間は
むしろ市民から愛される
穏健な皇帝だったというのだから不思議なものです。
軍隊の兵士に気前良く賞与を支給したり、
市民の前に頻繁に姿を見せてフランクに接したり、
皇帝の座をめぐる対抗馬だったゲメッルスを養子に迎えたり、
かつて自分の母を追放した元老院議員の反逆罪を不問にしたりと
その寛大さをエピソードは数多く残されています。
ですが…
それも即位からわずか7ヶ月目までのことでした。
狂気への転身
即位から7ヶ月目のある日、
原因不明の病(脳炎やてんかんとも推測されている)に倒れ
生死の境を彷徨ったカリギュラは
なんとか一命こそ取り留めたものの、
それを機に病的に疑り深く残忍な性格へと変貌してしまいます。
帝位にカムバックしたカリギュラが最初に行ったことは、
自身が病気から回復したら命を捧げてもいいと誓った
忠実な人々を呼び出して、約束を守ってもらおうと
崖から突き落として殺害することでした。
また、この時義父のマルクス・シラヌスや
先に少し触れた養子のゲメッルスに対して
自殺を強要することもしています。
このように周囲に対して
病的とも言えるほどの猜疑心を抱いていたカリギュラは
その後も元老院に対する粛清や
肯定への批判を行った市民に対する処刑など
恐怖政治の方針を徹底していきます。
またそれだけでなく
金銭や性に対して奔放でもあったカリギュラは
ある1年間に30億セステルス※の浪費をして国の財政を傾かせたり、
宮廷を売◯宿のようにして淫蕩三昧の日々を送ったり
実の妹3人全員に手を出したりと
現代にも残る悪名を次々に積み重ねていきました。
(※現代の日本円で数兆円以上)
しかしながらそれらにも増して
カリギュラの狂気を如実に示すエピソードが、
晩年(といってもまだ20代の頃ですが)のカリギュラが
自信を神と称して、市民に崇拝を強要していたことです。
紀元40年ごろを境に公の場で
ヘラクレスやアポロンなどの扮装をするようになったカリギュラは
神を自称し、公費を投じて各地に自分を崇めさせる
像や記念碑、神殿をローマに建設させたのでした。
まるで漫画に出てくる
典型的な悪党のようなムーブですが、
しかしいくらローマ皇帝とはいえ
こんな滅茶苦茶を繰り返している人間が
そう長く権力の座にとどまれるわけもありません。
これまでに述べた、あるいは述べなかった諸々の理由で
周囲の信用を完全に失ったカリギュラは
紀元41年、即位からわずか4年で
配下である近衛隊長に襲われて暗殺されてしまいます。
一説にはその暗殺の影には元老院と、
長らく参謀として彼を陰から支えていた
叔父のクラウディウスの存在があったとも言われています…
まとめ : 生い立ちと病に翻弄された一生
以上がカリギュラの紹介でした。
正直尺の関係で省いたエピソードがいろいろあるので
興味が湧いた方はこの記事とかも読んでみてください。
暗君としてはその知名度、エピソード共に
かなりハイレベルな皇帝でしたが
しかしこのカリギュラ、個人的には
なんだか悲哀のようなものも感じてしまうんですよね。
幼い頃に家族がバラバラになったこととか、
病気とか、ティベリウスの存在とか、
最後まで本人のどうにもならない運命に
翻弄され続けた感じがなんとも哀れに思えてしまうのです。
(彼の犠牲になった人たちからしたらそんなこと知ったこっちゃないでしょうが)
とはいえ、暗君としての知名度、与えた影響などを考慮して
今回のランキングではカリギュラをワースト2位に置きました。
ワースト1位 :無能・オブ・無能、西ローマ初代皇帝『ホノリウス』
知名度 : ★★☆☆☆
残虐度 : ★★★☆☆
無能度 : ★★★★★
迷惑度 : ★★★★★
変態度 : ★☆☆☆☆
ホノリウスのここがヤバい!
- 異民族でありながらローマのために粉骨砕身して働いていた名将スティリコを処刑。
- その上でゴート族から同名の証としてローマ側に提供されていたゴート族の妻子を殺すようにローマの住民を扇動。
- 家族を殺されたゴート兵の多くが復讐のため西ゴート族のアラリック1世の元へ亡命。自ら敵を増やす結果に。
- 蛮族に首都ローマを落とされ、略奪を許す(ローマ略奪)。
- あまりの無能ぶりから西ローマ帝国滅亡の遠因を作ったとする見方も。
栄えある(?)ワースト1位には西ローマの初代皇帝、
ホノリウス(Honorius, 384年9月9日 - 423年8月15日)を選出しました。
歴代ローマ皇帝の中でも、とりわけ
「暗愚」「無能」として語られることの多いホノリウスですが、
その生涯について語るには、当時のローマの状況と
父テオドシウス大帝について抑えておく必要があります。
父テオドシウスと義父スティリコ
ホノリウスが生きた時代、ローマ帝国は
コンスタンティノープルを中心とする東ローマと
ローマを中心とする西ローマに分かれ、
それぞれに別の皇帝が存在する権力の分裂状態にありました。
そんな中、東ローマの帝位についた
ホノリウスの父テオドシウス1世は
西ローマを傀儡化する形での東西統一を目論み、
その決め手として394年に当時10歳のホノリウスを
西ローマの皇帝として即位させる事に成功します。
しかし、それからわずか1年後の395年、
肝心のテオドシウスが冬営先のメディオラーヌム(現在のミラノ)で死去。
こうしてわずか11歳でアウェーの環境に
とり残される形となったホノリウスでしたが、
そんな彼を支えたのは
ヴァンダル族出身の父を持つローマ軍人、スティリコでした。
このスティリコという人は
血統を重視する当時のローマ社会にあって
半蛮人という大きなハンデを負いながらも
その生涯をローマのため
各地での反乱の鎮圧や周辺蛮族との戦いなどに捧げた
まるで漫画のヒーローのような人物であり、
またテオドシウスの元側近でもあったことから
幼いホノリウスに代わって政務を担当することとなったのです。
後に二人の娘をホノリウスと結婚させ
義理の父となるほどの関係となった
スティリコでしたが、
しかし、そんな彼に待ち受けていた運命は
あまりにも過酷で残酷なものでした。
名将スティリコの処刑
20代になり、もはや子供ではなくなったホノリウスには
次第にある野心が芽生えてきました。
それは、自らがかつての父のように
東西両ローマの支配者となることでした。
そして408年、東方正帝アルカディウスが死去すると
これを好機と見たホノリウスは次の東方正帝を任命せず、
単独で帝国を支配しようとしたのですが
それを
スティリコが諌め、東方副帝だった
テオドシウス2世を東方正帝へと昇格させます。
一説にはこのことがきっかけで
スティリコに不満を抱くようになったホノリウスは
スティリコを排除することを決断。
同じ年に東方から帰国したスティリコを
捕らえさせ、そのまま処刑してしまったのでした。
処刑の余波
スティリコに野心がなかったかどうかは
今となってはわかりませんが、
蛮族出身の英雄を
皇帝が処刑したことは、
ローマ在住の異民族出身者たちを
動揺させるには十分な出来事でした。
そして…
ここから実にひどいのですが、
この動揺を鎮める手段としてホノリウスは
ゴート族から同名の証としてローマ側に提供されていた
妻子を見せしめとして殺すという、
愚策に愚策を重ねるような選択をしてしまいます。
そしてその結果、
次は我が身と案じた異民族出身者が
ローマとは敵対関係にあった
西ゴート族のアラリック1世のもとへ大量亡命。
結果として敵に卑劣なローマ皇帝を打ち倒すという大義名分と
それを実現するための人員を同時に譲り渡す形となってしまったのでした。
ローマ陥落
ローマから逃げてきた人々を受け入れたアラリックは
軍勢を引き連れてローマを包囲し、元老院との交渉を開始。
その結果多額の賠償金と奴隷の解放に成功し、
次に宮廷にいるホノリウスとも交渉を図ったのですが、
ホノリウス側から帰ってきたものは
アラリックに対する侮辱と挑発の手紙だけだったとされています。
そしてあるとき、交渉のための階段の場に
ホノリウスが軍を派遣し奇襲をかけたことで
いよいよ我慢の限界に達したアラリックは交渉による解決を断念。
410年8月24日にローマ市内への侵攻を開始し、
3日間にわたる壮絶な略奪を行ったのでした。
こうして首都を奪われるという屈辱に見舞われた帝国はその後没落の一途を辿り、
476年のロムルス・アウグストゥルス廃位をもって
その歴史に幕を閉じることとなったのでした。
まとめ
父親の野望の駒として
わずか10歳の年齢で即位せざるを得なかったこと、
力を背景とした強引な即位によって
最初から同じ国の中に敵を抱えてしまったこと、
支配地である西ローマが周辺蛮族の脅威に加え
東ローマとも緊張関係が続く不安定な政情にあったことなど
ホノリウスにもいくつか同情すべき点がないわけでもありませんでした。
しかしそれらを差し引いても、
彼がリーダーとして無能であったことは否めず、
特に恩人でもあったスティリコを処刑したこと、
彼の無能さが西ローマ滅亡の遠因となったことには弁明の余地はありません。
かつてマキャベリが君主論で述べていたように、
リーダーにとって風聞というものは命取りであり、
ホノリウスのように周りから卑劣だと思われかねない行為を
簡単に行ってしまうような人は
そもそも人の上に立つ器ではないのでしょう。
終わりに
以上、ローマ帝国史上最悪の暗君・暴君ワースト5でした。
総合的な影響大きさから
ホノリウスを1位に選びましたが、
正直3位から上は誰が1位でもおかしくない接戦でした。
社会人の方の中には
日々上司の理不尽さに苦しめられている方もおられるかと思いますが、
今回紹介したようなリーダーと比べたら
それでもまだ天使のようなものだと考えれば
多少は慰められるかもしれませんね。
それでは
古代よりはいくらかましな時代に生まれてこられたことに感謝しつつ
本日はこれにてお別れとさせていただきます。
最後までお読みいただきありがとうございました。