はじめに
こんにちはdaimaです。
私は幼少期はSFCに親しみ、少年期は64やGCやプレステにその青春を捧げ、27歳を迎え社会人となった現在は毎週末PS4をプレイしまくっている根っからのゲーム大好き人間です。
そして、そんな私には子供の頃からある一つの拭いがたい疑問がありました。
それは、「どうしてこの世にクソゲーが生まれてしまうんだろう」というひとつの素朴な疑問です。
そこで本日はそのささやかな疑問に答えを出すために、私自身の体験を含む実例に基づいて様々なクソゲーを大きく4つのタイプに分類し、一ゲーマーの立場からクソゲーが生まれるメカニズムの考察を試みてみたいと思います。
1.予算、技術、開発期間の不足
概要
予算や開発期間、または開発側の技術力不足の結果として、バグやゲームバランスの問題を抱えたまま発売されてしまった正統派のクソゲーを指します。FCなど黎明期のゲームに多く見られるのが特徴です。
現在ではゲーム開発のノウハウが集積し、加えて消費者側もネットから大量の情報が手に入るようになったため、こうしたクソゲーに出会う機会は昔と比べて随分減っています。
例
元祖西遊記スーパーモンキー大冒険
なか゛いたひ゛か゛はし゛まる‥
『西遊記』をテーマにしたファミコンのRPG。その悪名は日本国内にとどまらず、例として上記海外レビューサイト『GameFAQs』では本作を「The Worst Japanese RPG ever made(日本が作った史上最低のゲーム)」と酷評しています。
その酷さを知るにはプレイ動画を見ていただくのが一番早いでしょう。これをリアルタイムでプレイした当時の子供達の悲しみはいかほどのものだったのでしょうか…。
デスクリムゾン
エコールソフトウェアが1996年にセガサターン向けに発売したシューティングゲーム。通称10年に一度のクソゲー。
- パースの狂った建物やぐちゃぐちゃな敵のグラフィック
- STGなのに操作性最悪。勝手に照準がずれまくる
- 以上に難易度の高い第一ステージ
- 健康被害が心配されるフラッシュの乱用
- 被ダメージ時の無敵時間が瞬きほどの一瞬しかない
- ゲームオーバーするとスキップ不可の会社ロゴまで戻される不親切な仕様
- ツッコミどころしかないオープニングムービー
などなど、特に目立つ部分のみを抽出しましたがそれでも相当なものです。特にプレイ時のフラッシュの激しさはかなりのもので、プレイ動画視聴の際は注意が必要です。
本作がクソゲーとなってしまった最大の要因は、エコール社の開発経験の少なさによるものだったと思われます。エコールは元々CAD関連のソフトウェアを開発していた会社であり、デスクリムゾン以前のゲーム開発経験はわずか1作でした。
しかしそのあまりに突き抜けたクソゲーぶりと上記の不思議な中毒性あるOPムービーが一部のクソゲー愛好家の心を掴み、後にクリムゾナーと呼ばれる熱烈なファンも出現。結果として本作は愛すべき伝説のクソゲーとして、下手な良作ゲーム以上の人気と知名度を得るに至ったのです。
ちなみにこの状況を開発元のエコールソフトウェアも認識しており、2008年には同社社長と主人公コンバット越前の声優せいじろう氏と一緒にOPのロケ地を巡る聖地巡礼イベントを敢行。一部で大きな話題を呼びました。
メジャーwii パーフェクトクローザー
2008年のKOTY(クソゲーオブザイヤー)据え置き機部で大賞を受賞した問題作。通称「ダメジャー」
2008年のクリスマス商戦に向けて、わずか三人のプログラマーによって開発されたという本作。(ちなみに、中規模のゲーム開発における一般的なプログラマーの人員数はおよそ15人程度が普通と言われています)
その開発期間不足と人員不足の結果、「主審とバッターがピッチャーにケツを向けて立っている」「キャラクターの首が180度回転する」「バッターがケツでボールを打つ」「捕球もケツで行う」などのインパクト絶大なバグが山盛りのままリリースとなり、その光景を動画で視聴した当時のネットユーザーを爆笑の渦に叩き込みました。
また、ストーリーの分岐管理すらも半ば放棄されており、ゲーム内最後の試合はたとえ負けても優勝した扱いになるという非常に斬新な仕様。
直球型のクソゲーらしさに加え、後述するがっかりゲーと手抜きキャラゲーの要素も併せ持ったマルチプレイヤーぶりは、まさにクソゲー会のメジャーリーガとでも呼ぶべき風格です。
がっかりゲー、失望ゲー
概要
固定ファンの多いゲームの続編や人気原作のゲーム化などで元々の期待値の高いタイトルが期待に十分応えることができず、結果としてその落差に失望したファンからクソゲー認定を受けるパターンです。
前作との落差がキーになるため、ある程度遊べるゲームであってもこのタイプに分類される可能性があり、またファンの深い怒りや失望、憎悪を受けているため長期にわたって炎上するケースが多いのも特徴です。ちなみにこの型の例として挙げる作品は全て私が過去にプレイし、実際に深い落胆を味わった作品ばかりです。
例
ジョジョの奇妙な冒険オールスターバトル
ジョジョの奇妙な冒険オールスターバトル(ジョジョASB)は人気漫画ジョジョの奇妙な冒険を原作とするPS3向けの対戦格闘ゲーム。ナルティメットストームシリーズなどで知られるCC2が開発を担当し、販売はバンダイナムコが担当しています。
このゲームがファンの怒りを招いた最大の原因は、事前のプロモーションで散々ファンの期待を煽っておきながら、調整不足で欠陥だらけのゲーム内容を半ばだまし討ちに近い課金システムと抱き合わせで平然と世に送り出した点にあります。
実際、本作の販売戦略は実に見事なものでした。美麗なモデリングと派手な演出のPVを小出しにしてSNSなどで話題を集め、人気声優を大量に起用し、さらに大金をかけたであろう街頭PVやラッピング電車などの宣伝手法で、本来のファン層の外にまでアプローチを広げたのです。
また、往年のジョジョファンを公言するCC2の松山洋社長による発売前インタビューなどでの挑発的な発言(過去に発売されたジョジョゲーをこき下ろすなど)の数々も、「この人ならファンの気持ちを汲んだゲームを作ってくれるかもしれない」というファンの期待をいやが上にも高めるものでした。
松山氏「バンダイ以外だと、
コブラチームが作った
『ジョジョの奇妙な冒険』
もすごかったですね。最後のディオとの戦いで、
承太郎はどうやって
時間を止めるんだろうと
ワクワクしていたら、
まさかアイテム。そして、ディオが音声付きで
攻撃してくると期待したら、
「無駄無駄無駄無駄」と
ビープ音みたいな棒読み。髪の毛が白くなるかと思いましたよ(笑)。
『ジョジョ』ファンとして、
そんな思いをしたユーザーが
いることを忘れないでほしい。
なかったことにしてはダメです!」(『週刊ファミ通』2008年3月21日号より)
しかし、そうして期待を高めに高めて訪れた発売当日、松山氏がインタビューで語った髪が白くなるような思いというものを、今度は私を含む多くのASB購入者が味わうこととなったのです。
- 紙芝居レベルのストーリーモード
- 最高レベルでもまともにコンボすら完走できないCPUのAI
- スピード感がなく、全体的にもっさりした挙動
- コンボカットもないのに次々見つかる永久コンボ
- オンラインで猛威を振るうバッタ戦法(GEOキック)
- フルプライスなのにキャンペンモードがソシャゲのような体力制の搾取仕様
- 部ごとに明らかな偏りのある人選(6部など少なすぎる)
- 原作愛が売りなのにバイツァ・ダストなどの再現は大雑把
- オンライン対戦時のラグも無視できないレベル
と、発売直後から様々な問題点、不満点が浮上し、ネット上のレビューは喧々諤々の議論の嵐。その結果週の終わりには中古価格が500円まで落ちるなど、まさにジョジョショックとでも言うべき前代未聞の惨事を巻き起こしたのです。
中でも本作の評判にトドメを刺したのがかの悪名高いキャンペンモードの存在でしょう。
これは、時間経過で回復するエネルギーを消費してランダムに戦えるCPUに勝利すると、キャラカスタマイズ用のアイテムが入手できるという一種のやり込み要素でした。
しかしこのモードがユーザーの怒りを招いたのは、それがフルプライスゲームのサブ要素としてはあるまじき課金型のソシャゲの課金システムを備えていたこと、そしてその事実がゲームの発売直前まで(=予約キャンセルが難しいタイミングまで)完全に隠蔽されていたことでした。
↑狙ったボスが出るまで延々弱っちいCPUとひたすら試合を繰り返すキャンペーンモード。いかれているのか?
その上、キャンペーンモードの内容自体も基本コンボすらまともに完走できないCPUと延々戦うだけの非常につまらないもので、やる気の感じられない紙芝居のようなストーリーモードや調整が甘く速攻で多数の永久が発見された対戦モードと合わせて、本作の評判を地の底にまで叩き落す結果となりました。
そんな本作にも一応、コスチュームの豊富さや原作を意識した各種モーションのこだわり、格ゲーマーの意見を取り入れた後のアップデートによる対戦バランスの改善など評価できる点が無いわけではなかったのですが、いかんせん事前の期待と発売後の評判とのギャップによるマイナスイメージは覆しがたく、ジョジョASBの存在は今なおCC2やバンナムの評判に暗い影を落とし続けています。
本作はユーザーを軽視したゲームの悪例として、恐らく今後も長く語り継がれていくことでしょう。
デジモンワールド2
ASBに続いて個人的体験に基づく作品をもう一つ。バンダイが2000年にPSで発売した育成RPG『デジモンワールド2』です。
このゲームは、好評だった前作『デジモンワールド』の2作目を名乗っておきながら、前作からゲームシステムも世界観も全く別物に変えてしまったことで当時の私を含む多くの少年たちを失望させました。
島の中を自由に動き回れた前作と違い、本作ではドラクエのようなRPG制とローグライクもどきのダンジョン探索システムが導入され、前作にあった育成と探索の自由度、ワクワク感が大きく削がれてしまっていたのです。
また単独のゲームとして見ても問題点が多く、マップ移動やバトルのたびに数十秒のロードが入ったり、進化条件を解放するためにジョグレスというシステムが何度もレベル1から育て直しがある非常に面倒なものだったり、踏んだら即探索終了レベルの理不尽なトラップ(リターンバグ)があったりと、快適なプレイにはまったく程遠い状態でした。
ただ実際のところ、それでも当時の私はなんだかんだでこのゲームをクリアまでやり込んでいました。期待と違ったものであってもそれはそれで別の楽しさがあったということかもしれません。(今よりゲーム一本の価値が大きい子供時代だったこともあるでしょうが…)
ですので、個人的に本作に対してはジョジョASBに対するような負の感情はあまり抱いていなかったりします。
風来のシレン3
2009年にWii向けに発売された、ローグライク形式のダンジョン探索RPG『風来のシレンシリーズ』の第3作目にあたる作品です。
風来のシレンとはトルネコの大冒険やチョコボの不思議なダンジョンといった名作ゲームを生み出した不思議なダンジョンシリーズの元祖にあたる作品で、その「死んだら0からやり直しの緊張感」、「アイテム、ダンジョン、敵配置のランダム化によるギャンブル感」、「プレイヤー自身が成長する達成感」などの数えきれない魅力によって、当時から多くの根強いファンを獲得していました。
私はこの風来のシレンシリーズのSFC初代、及び64の2の大ファンであり、前作のから計9年の時を経て本作が発売されると知った時は、同じくファンであった兄弟とともにそのニュースを喜び合ったものでした。
しかしいざプレイを開始してみるとそこにあったのは、かつて私たちが親しんだ風来のシレンとは明らかに似て非なる何かだったのです。
- 言動が微妙にズレていて感情移入できないキャラクターたち
- 3D化、頭身の増加による視認性の低下
- ことごとくアイテムが無効化されるため、回復して殴るだけになるボス戦
- 序盤からレア武器を拾える可能性が皆無。
- レベル継続性の採用による緊張感の低下
- 仲間が死亡すると探索失敗になるという改悪
- 「狂戦士状態」→「棒立ちの仲間を殴る(なぜか逃げない)」→「仲間死亡」→「ゲームオーバー」という史上最悪の理不尽コンボ
その酷さは、これまで何1000回と同シリーズのダンジョンに潜ってきた私ですら、クリア後のお楽しみダンジョンをほとんど遊ぶことすらなくプレイを放棄してしまったほどでした。
いまさらだけどシレン3を批評してみる - 未来私考
風来のシレン3にガッカリしたのでレビューを書いてみる : キツネハンターのブログ
NGD まだシレン3への苦言は続く(ストーリー編)
この感想は当時の他の多くのプレイヤーも同様だったようで、ネット上を探すとシレン3に対する阿鼻叫喚の感想が山ほど見つかります。
そしてそんな今作の評判が響いたのか、後にDSで発売された「4」の売り上げは9万本程度に低下してしまいました。(初代と2は共に20万本超え)
がっかり型のクソゲーは、シリーズの命運すら断ちかねないという顕著な一例ですね。
3.手抜きキャラゲー
概要
キャラゲーとは漫画や小説、アニメなどの原作人気を前提として開発されたゲームの総称です。
キャラゲーは手堅く販売本数が見込める反面、人気のある原作であれば内容が多少アレでも売れてしまうため、作り込み不足のクソゲーが生まる温床となっている一面もあります。
しかし、キャラゲー即ちクソゲーという訳でもなく、バットマンアーカムシリーズやNARUTOの激闘忍者大戦などキャラゲーから名作が生まれることもまた珍しくありません。
例
ET
映画ET公開翌年の1983年にATARI2800向けに販売された一作。
完全に映画の人気を当てにして作られたゲームであり、そのクオリティはグラフィック、ゲーム性、原作再現の全てにおいて褒めるところがないという相当な代物でした。
そのクソっぷりはもはや伝説級であり、のちのアタリ倒産(アタリショック)の引き金にもなったと言われています。
また、本作にまつわる珍エピソードとして「大量の売れ残り在庫に困ったAtariがトラック十数台分の本ソフトをニューメキシコの砂漠に埋めて廃棄した」という都市伝説が発売後長年まことしやかに囁かれていました。しかし実はこの伝説は事実であり、2014年に砂漠に埋められた本ソフトの残骸が発掘され、さらにその内一本は「史上最悪のゲーム」としてスミソニアン博物館に展示されるというある意味名誉とも呼べる扱いを受けたというのだから驚きです。
しかし、こんなゲームでも最終的に150万本売れたというのだから恐ろしい。きっと当時のアメリカではこのゲームのために、数えきれない子供達が涙を飲んだのでしょうね…
逆境無頼カイジ Death or Survival
福本伸行のギャンブル漫画、カイジを原作とするニンテンドーDS向けのゲーム。2008年クソゲーオブザイヤー携帯機部門次点。
カイジのアニメが放映されていた2008年に発売された本作は、人間同士の心理戦が魅力である原作を一人用ゲームで再現するという無謀な試みを行い、結果として心理戦要素皆無のしょっぱいミニゲームの数々と、肝心の原作再現すら微妙というなんとも香ばしいゲーム内容を世に送り出しました。
特に酷いのが「瞬間の閃き」という技で、これは限定ジャンケンやEカードの対決の直前にミニゲームが挿入され、それをクリアすると相手の出す手が超能力の如くわかるようになるというもの。原作にあった複雑な駆け引きなど微塵もなく、さらに一々ミニゲームが挟まるためテンポも悪くなるという、カイジでなくとも「ひどい・・・・・・!ひどすぎるっ・・・・・・! 」と嘆きたくなるような代物。
さらにキャラゲーとしての完成度も非常に微妙であり、ストーリーに多数の端折りがあるせいで原作未読のプレイヤーには原作の魅力が全く伝わらず、原作ファンにとっては利根川の焼き土下座の時間をカイジ(プレイヤー)がミニゲームの形式で操作できたり、最後のくじ引き対決に負けても会長に指を取られず再度エスポワール乗船からやり直しになったりと、意味不明な原作改変の数々が気になってまともにゲームを楽しむ気持ちが起こりません。
総じて本作は、ゲーム化に向かない原作漫画を無理やりゲーム化した際に起きる失敗の典型例と言えるでしょう
4.狙ってやってる型
概要
最初からクソゲーと呼ばれることを前提として開発された作品、いわゆるネタゲー。ギャグ漫画原作のゲームなどに比較的よく見られるタイプです。これらの作品にとって、クソゲーと呼ばれることはむしろ名誉ですらあると言えるでしょう。
例
たけしの挑戦状
「こんな け゛ーむに まし゛に なっちゃって と゛うするの」
人気芸人ビートたけし監修による1986年発売のFC向けアクションアドベンチャー。先述したデスクリムゾンの先代に当たる、「初代10年に1度のクソゲー」。
後の北野映画を彷彿とさせるシニカルで暴力的な世界観と、異常に自由度が高いくせに正解のルートが一つでさらにノーヒントという悪魔じみた難易度、そしてゲームオーバー時の葬式風景や通行人を殴り殺せる仕様、2Pコントローラーのマイク機能を利用したカラオケなど前衛的な演出の数々が最大の特徴。
本作のこの狂気じみたゲーム性は様々な物議を醸し、例えばこのゲームの攻略本を出版した太田出版には連日のように質問と抗議の電話が鳴り響き、たけしの弟子であるたけし軍団の面々は街中で購入者から「金返せ!」と罵倒されることも度々あったそうです。
しかし、そのあまりに突き抜けたクソっぷりはやがて伝説となり、2009年にはWiiのバーチャルコンソールで、2017年にはスマホ向けのアプリで二度にわたってリバイバルされるという、クソゲーにあるまじき快挙を果たしました。
本作は開発側が狙ってクソゲーを作り、それが想定以上の反応を産んだ最も顕著な例といえるでしょう。
絶体絶命でんぢゃらすじーさん ~史上最強の土下座
「絶体絶命でんぢゃらすじーさん ~史上最強の土下座」は、コロコロコミックの児童向け不条理ギャグ漫画を原作とするGBA向けのアドベンチャーゲームであり、自らクソゲーを自称しているレアなゲームでもあります。
原作漫画のでんじゃらすじーさんは私が小学4年生だった2001年にコロコロコミック誌上に彗星の如く現れ、そのカオスにカオスを重ねたような作風で当時の子供達のギャグの概念を破壊し尽くした伝説的作品であり、それを原作とする本作も当然ながらまともなゲームではありませんでした。
決定ボタンがなぜかAではなくRであったり、ラスボス戦が2秒で終わったり、OPでこのゲーム自体の宣伝をやったりとそのやりたい放題ぶりはまさに原作のノリそのもの。
しかしながら、これらの要素は原作既読者であれば概ね予想(期待?)通りのものであり、また、各種変身のコレクション要素やミニゲームのやりごたえもなかなか。さらに原作のネタ(効果音など)も細かく拾われているため、本来の意味のクソゲーと言うよりも良くできたバカゲーというくくりの方が正しいかもしれません。実際、当時の私もこのゲームをよく楽しんで遊んでいたと思います。
例外-1:アンバランス、賛否両論ゲー
概要
ここからは例外として、諸々の理由でクソゲーとされることも、名作とされることもある賛否両論タイプのゲームについて考察してみたいと思います。
例外の一つ目は、ゲームバランスなどに部分的な難があり「これだけやってれば勝てる」といったパターン化や、キャラクター同士の強さのバランスに著しい偏りのあるためにクソゲーと判断されがちなタイプのゲームです。
しかし、このタイプはそのピーキーさがかえって熱狂的なファンを産む場合も少なくなく、後にファンによるやりこみが進んでカルト的な人気を博す場合も少なくありません。
例
ファイナルファンタジーVIII
1999年にPSで発売されたFFシリーズの正統ナンバリング作品。
世界的ヒット作FF7の後釜という重すぎる荷を背負って世に出た本作は、「アイテムのように所持数の概念がある魔法」「戦闘中に敵から魔法やGF(召喚魔法)を奪うドローシステム」「プレイヤーがレベルアップすると相対的に敵も強くなるレベルシステム」などの意欲的な新システムをひっさげ、鳴り物入りで市場に殴り込みをかけました。
しかし、それらシステムはあまりにそれまでのRPGの常識と反するものであったためにプレイヤーの混乱を招き、またあえてレベルをあげずに精製(特定のアイテムを別のアイテムや魔法に転換する)やジャンクション(GFや魔法をキャラに装備させてアビリティを得る)をフル活用することでゲーム難度が壊滅的に低下するなど、バランス調整にも大きな難がありました。
さらに加えて、「だったら壁にでも話してろよ」のセリフがインパクト大な主人公スコール、迷言連発のヒロインリノア、くさい息を吐く美人の女教師キスティスを始めとするアクの強いキャラクターと、時間軸が複雑に絡み合う難解なストーリーが加わったことで、369万本という大ヒットにも関わらず、本作が肌に合わなかった多くのプレイヤーから「FF8はクソゲー」と呼ばれる憂き目にあったのでした。
しかし、当時としては最高レベルのグラフィックや没入感ある演出、自由度が高くやり込み性の高い育成システム、そして中毒性の高いカードゲーム(トリプルトライアド)などのミニゲームは一定の評価を受けており、現在では合わないな人は受け付けないけれど好きな人はとことんハマるという、食べ物に例えるなら納豆やくさやのような賛否両論ゲーの位置に収まったのでした。
北斗の拳(AC)
『ギルティギア』、『ブレイブルー』で有名なアークシステムワークスが2005年にリリースした、人気漫画「北斗の拳」を原作とするアーケード向け(のちにPS2に移植)の2D対戦格闘ゲームです。
即死、永久は当たり前、さらに一部強キャラ(主にトキ)に弱キャラはほぼ勝ち筋がないというそのあまり世紀末なゲームバランスは「ジョインジョイントキィ」「命は投げ捨てるもの」「世紀末バスケ」などの多数の名言を生み、本来のプレイヤー層を大きく超えて動画サイトを中心にネタとして広く流布されました。
しかし、そのに突き抜けっぷりが逆に手練れの格ゲーマーたちの注目を集めたことで一部の猛者による研究が進み、当初一強と思われたトキ以外にもほとんどの通常技がジャンプキャンセルでき、圧倒的な崩し性能を持つレイや、クセは強いものの、持続が長くガードした相手を追撃できる「ダム決壊」や嫌らしい設置技による立ち回りの強さを持つユダを筆頭として全てのキャラの強みが見直され、「全員がぶっ壊れ性能なことで逆にバランスが(ある程度)取れている」という奇妙な事態が成立してしまったのです。
本作はゲームとしてのまずさが逆に魅力となって、愛されるネタゲー(?)にまで昇華した非常に幸運なケースと呼べるでしょう。
例外2 : 俺がクソゲーといったらクソゲー
概要
個人や少数のグループが、主観によって自分の趣向や主義に合わなかった作品をクソゲーと判断するケースです。
どんなゲームであっても、それをプレイする人の状況、趣向によってクソゲーとなりうるため、ある意味この世に存在する全てのゲームはこのタイプに適合する可能性があると言えます。
例
この世に存在する全てのゲーム
このタイプには、この世に存在する全てのゲームが該当します。ある人がそれをクソだと感じれば、時オカもFF7もundertaleもアンチャーテッドもHorizon Zero Dawnも全てクソゲーとなりうるのです(※その人の中では)。
結論 なぜクソゲーが生まれるのか?
当記事で示した結論は、この世にクソゲーが生まれる要因はいくつかあり、それは大まかに「技術、費用、期間の不足」「前作からの落差による失望」「原作人気に頼ったキャラゲーの手抜き開発」「あえて狙ってクソゲーにしたもの」の4つに分類できるということでした。
もちろんこの分類は完全ではなく部分的に重複などもありますが、概ね世間一般で言われるクソゲーはこれらの範疇に収まるのではと考えています。
今の時代はクソゲーに当たりにくくなっている
この記事を書いていて私がふと思ったことは、2000年中盤あたりを境にして、クソゲーを踏み抜く機会というのが著しく減ってきているのではないかということでした。
特に分母が大きく比較的恣意性の少ないネットレビューの発達は大きく、思えば私も新しくゲームを購入する際にAmazonレビューに目を通さないということは殆どなくなりました。
情報の発達によって買い物の失敗が減ること自体は良いことだと思います。特に経済的自由の少ない子供の場合、貴重なお小遣いで買うゲームで失敗した時のやり切れなさは大人の感じるそれとは比較にならないものですよね。
ただ、そうしたレビューに対し「みんながそう言っているから」と無闇に信じ切ってしまうこともまた、自分にとって本当に面白いゲームと出会う機会を減らしてしまう危険性もあるのではと私は思います(同調意識の強い私たち日本人は特に・・・)
例えば私は以前、幼い頃に夢中で遊んでいたあるゲームがネットでクソゲー扱いされているのを知って、自分の思い出自体が貶されたような感覚を覚えたことがありました。
しかし、たとえ世間がどう評価しようが、当時私が抱いた「楽しかった」という思いは決して変わらないものだと思います。
無論、質の悪いゲームを擁護するわけではないですが、私的には世間一般の評価よりも、自分が主観的にどう思ったかを大事にした方がよりハッピーなゲーマーライフを送れるように思うのです。それに万が一クソゲーにあたっても、ポジティブに捉えれば後からそれを笑い話にすることもできますしね…