なぜ私たちは本を読まなければいけないのか

エッセイ

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『読書』する意味ってなんだろう?

突然ですが、
あなたは本を読むことが
お好きでしょうか。

私は昔から本の虫で、
小学校の頃はクラスで
一番本を借りた子だけが貰える
金ぴかのシールが
ひとつの自慢の種でした。


(▲ こんな感じの)

そして、その習慣は
大人になった今も変わらず、
フィクション、ノンフィクション、
文学作品、推理小説、エッセイ、
ドキュメンタリーなどジャンル問わず
月におよそ2〜3冊ほどの本を
欠かさず読むようにしています。

しかし、そうして
読書という行為に親しんできた一方で、
私の中には自分が一体読書に何を期待し、
読書から何を得ているのだろうか

という素朴な疑問も同時に存在していました。

というのも、
今は娯楽が必要であれば
文字だけでなく光や音も楽しめる
映画やドラマが手軽に
観られる環境が整っているし、
知識を増やすという目的であっても
インターネットを駆使すれば
手軽で美味しい料理のレシピから
ある程度高度な学問知識まで
苦もなく手に入ってしまう時代です。

そんな現代において、
あえてアナログな紙の本を
読み続けることには
一体どのような意義が
あるというのでしょうか。

そこで本日は
その疑問について、
読書の大きな3つのメリットを
命題として、私なりの考察を
行ってみたいと思います。

命題1 読書をすることで幅広い知識を身につけることができる

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読書 vs インターネット

読書のメリットは何かと聞かれて
おそらく最も最初に思い浮かぶのは
知識が増えるという事ではないでしょうか。

しかしながら冒頭で触れたように、
現代にはより手軽で、より早く、
そしてより幅広い情報を得られる
インターネットという存在があります。

インターネットを駆使すれば
昔学校で必死に暗記した
歴史的事件の年号や
元素記号などはもちろんのこと、
手軽で美味しい晩御飯のレシピや
公務員試験の過去問、あるいは
3Dプリンター用の拳銃の設計図まで、
(その気になれば)いつでもどこでも
ほぼ無料で手に入れることができてしまいます。

www.koshohirakiya.jp

こうした社会の情報化は
確実に紙の本の役割を奪いつつあり、
例えば昔はどの家庭にも一冊はあったという
分厚い百科事典などは
今はもうおいている家庭の方が珍しいくらいに
見かけないものとなってしまいました。

tabi-labo.com

加えてもう一つ興味深いのが
一部の国で試験的に導入が進められている
高校などのテストの際に
ネット検索の利用を認める動き
です。

これは、従来の自分の記憶力以外
頼れるもののないテストを受けてきた
私たちの感覚からすると
何だかズルいようにも思えてしまいますが、
時代に即していると言う意味では
確かに正しい変化なのかもしれません。

そしてこうした時代の流れは、
今後も続くであろうCPUの処理能力の増大や
5G回線の利用開始などによって
ますます加速していくものと予想されています。

www.nttdocomo.co.jp

ネットの情報は本質的に断片的だ

ここまでネットの利便性を見てきましたが、
それでは読書がネット比べて
知識を得る手段として、
優れている部分とは何なのでしょうか?

この疑問に対する私の答えは、
「ネットで得る知識は断片的だが
読書で得る知識は連続的だ」

というものです。

ネット記事の場合SEOの関係で
1ページの文字数多くても
1万文字以内になることが多く、
書籍のように一つのテーマを
様々な角度から語り尽くす
ということが苦手です。

また、ネットの場合
NA○ERまとめをはじめとする
キュレーションサイトによる
『まとめ』文化が根強く、
ますます必要な情報だけを
ピンポイントで読む(=良い意味での寄り道が無い)
ことの繰り返しに陥ってしまいがち
だという短所もあります。

対して書籍の場合は
10万文字でも20万文字でも
著者が納得いくだけの文量を
一つのテーマに費やすことができ、
その分ネットよりも
深く掘り下げた内容になりやすい
というメリットがあります。

そして、掘り下げが深いということは
メインテーマから派生してさらなる
関連知識を得られる機会も多い

というメリットにも繋がります。

例えば心理学の本を読んで
アダム・スミスの思想に触れたり、
暗号に関する本を読んで
チューダー朝イギリスの
歴史の一幕を知ったりする。

このように、読書で得られる知識には
一見無関係で実は関係のある
別の知識へと広がる強い連続性があり、
だからこそ、読書好きというのは
一つの分野だけでなく
様々な分野に見識の広い、
いわゆる「物知り」になりやすい
のではないかと私は思うのです。

また、匿名文化の強い※ネットと違い、
一般に販売されている書籍は
著者と出版社が自らの名前で
責任というリスクを負って
執筆、発行されているものなので
比較的信頼性が高いというのも
書籍の大きなメリットですね。
(※ 最近ではネットでも
フェイクニュースが問題視され
実名で記事を書くケースが増えていますが)

このように、
読書にはネットにはないメリットが数多くあり、
その意味でまだまだ「ネットさえあれば
読書は必要ない」なんてことには
ならないのではないかと私は思います。

命題2 読書は想像力を豊かにする

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読書は想像力を鍛えるか?

昔から読書は人の想像力や
感受性を高める
と言われてきました。

しかし、果たして
その根拠はどこにあるのでしょうか。

この疑問について考えるならば、
読書と映画やテレビの
性質の違いを考えるのが有効でしょう。

例えば小説を読むのと
刑事ドラマや映画を見るのとでは
一つのストーリーを追う
という意味では同じです。

しかし、小説(=読書)の場合、
読み手が頼れるのは文字情報しかなく、
登場人物の顔や舞台の風景の細かい部分は
自分の頭で想像するしかありません。

そして、この想像するという行為が、
想像力を自然と高める
レーニングになってくれるわけですね。

読書は共感能力も高める。ただし…

読書は想像力に加えて
相手の心の動きを汲み取る
『共感能力』を豊かにする効果も
あるとされています。

共感能力は
あらゆるコミュニケーションに
欠かせない重要なものであり、
読書でこの力が伸ばせるなら
とても嬉しいことであります。

しかし、ここで留意したいのは
本のジャンルによって
共感能力に及ぼす影響には差がある

という点です。

jp.wsj.com

例えば2006年に行われた
上記のトロント大学の研究結果によると、
共感能力を伸ばすのに最も
有効なジャンルは文学的フィクションであり、
ノンフィクションを読んだ場合は
逆に周囲から孤立する傾向が強くなった
という
実験結果が報告されています。

私などはノンフィクションも好きなので
この結果はなかなかに衝撃的なのですが、
読書の意義を考える上では
決して無視できない情報ですね…

命題3 読書は読解力、コミュニケーションスキルを高める

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読書が言語能力(文章理解力、語彙力など)
育む
というのは、誰もが自然に
納得できる意見ではないでしょうか。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep/63/3/63_254/_pdf
(▲ 複数の読書量推定指標と語彙力・文章理解力との関係:—日本人小学校児童への横断的調査による検討—(PDF))

例えば上記文献では
読書と言語能力の関係性が示されています。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shougai/040/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2017/08/15/1389071_005.pdf
(▲ 子供の読書活動に関する現状と論点 - 文部科学省(PDF))

また、こちらの
国立青少年教育振興機構
平成27年度に行った実態調査では、
「読書をすることが多い子供ほど、
コミュニケーションスキルや
礼儀・マナースキルが高い傾向にある」

という結果が報告されています。

読書は本当にコミュニケーション能力を高めるか?

一連の研究結果を鑑みるに、
読書には確かに
コミュニケーション能力を
育てる効果があると言えそうです。

しかしその一方で
読書好きの人間というと、
「物静かで内気、人付き合いが苦手そう」
な人物像をイメージしてしまうのが
素朴な一般感覚ではないでしょうか。

(分かりやすい例を挙げると
お笑い芸人のピース又吉さんのような感じ)

そもそも私のように本が好きだけど
人付き合いが得意でない人間も
この世にはたくさんいるわけで、
そう考えると例え偉い先生に
「読書はコミュニケーション能力を育てる」
と断言されても、なんだか
しっくりこない気がしてしまうんですね。

読書が高めるのは論理的思考能力だ

この矛盾に対する私の答えは、
「読書が高めるのは
あくまでも論理的思考能力である」

というものです。

論理的思考能力とは
ざっくり説明すると
「1.ソクラテスは人間である
2.人間はいつか死ぬ
3.つまり、ソクラテスもいずれ死ぬ」
という三段論法に代表されるような、
「誰もが納得できる方法で
物事を説明する能力」
のことを指しています。

この論理的思考能力は、
近年ロジカルシンキングとして
ビジネスの場面で特に注目が高く、
日常会話の面でももちろん役立つものです。

ですが、ご存知のように
人対人のコミニュケーションは
決して論理だけで
割り切れるものではありません。

そこにはしっかりした自己肯定感と
なにより場数を踏むことが不可欠であり、
仮に論理的思考能力に優れていても
極端に自分に自信がなかったり
対人経験値が浅かったりすると
やはり円滑なコミニュケーションは
難しくなってしまいます。

つまるところ結論としては、
「読書をすると論理的な力はつくけど、
それと他人とうまくやってく能力はまた別物だよ」

ということです。

ちょっと当たり前すぎて、
大した驚きもないかもしれませんが…

おわりに 読書はやはり有益だった

当記事で私が最終的に得た結論は、
『読書は幅広い知識を学ぶ上で
最も適したツールであり、
想像力や論理的思考能力を
育む効果も期待できる』
というものです。

そして今回、
各種データを見て行く中で
特に印象的だったのが、
読書量と子供の学力の
相関関係の強さでした。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/045/shiryo/attach/__icsFiles/afieldfile/2011/03/02/1302195_01.pdf
(▲ 読書活動と学力・学習状況調査の関係に関する調査研究 第1 ... - 文部科学省(PDF))

上記PDFは文部科学省
静岡大学に調査を委託して実施した
読書量と子供の学力の
相関関係の調査結果です。

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(▲ 上記資料より引用)

読書活動に関しては、
読書好きであるかどうかが
教科の学力の様々な部分と
強い関連を示し、
その関係の強固さが明らかになった。

この資料によると、
読書量と学力(文系理系問わず)には
明らかな相関関係があるとのこと。

こういう資料を読むと、
いつか自分に子供ができたら
読書の習慣だけは
必ず身につけさせたいという
気持ちになりますね。

平日の読書時間も
教科の学力とは関係しているが、
長時間の読書は必ずしも
学力の高さには結びつかない。

教科の学力が高い層ほど、
小学校では 10 分以上2時間未満、
中学校では10 分以上
1時間未満の読書を行う
児童生徒の割合が多い。

また、学力層Aの
読書好きの小学校の児童は、
計画的に勉強している者ほど
読書時間を長く確保しているが、
中学生ではその傾向が弱かった。

さらに、学力層Dの長時間読書者は、
テレビやゲーム等にも
長時間費やしている者が多く、
読書の内容・質を高めるための
読書指導を行う必要があると考えられる

ただし、
同資料で注意したいのは
読書量が極端に多い場合は
成績が伸びなかったり
逆に成績が落ちたりする
傾向が見られた
という点です。

読書は確かに有益ですが、
それ以上にバランスが大事
ということでしょうか。
(そういえば哲学者の
ショウペンハウエルも自著
『読書について』で
多読の弊害を語っていましたね。)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

本を読まない人が増えている!?

最後に個人的に気になったデータをもう一つ。

www.sankei.com

こちらは少し古い情報ですが、
近年一冊も本を読まないという人が
増加しつつあるそうです。

確かに、昨今ソーシャルゲーム
SNS、動画配信サービスなど
私たちの余暇の時間の使い方は多種多様になり、
その中で読書を選ぶ人が減ったとしても
少しもおかしいことではないのかもしれません。

ですが、適度な運動と多くの読書こそ
人生を豊かにする習慣であると信じる
私にとって、この状況は
将来の世界にとってとても
危惧すべきことのように思えます。

本を読むことは
今まで知らなかった
新しい世界の扉を開くこと。

私たちは残りの人生で
一体あと何枚の扉を開くことが
できるのでしょうのか。

参考資料

大人のための創造的読書法
読書で脳が“物理的に激変する”ことが科学で判明! 大人でも有効、別人へと変身できる可能性(最新研究)
小説を読めば共感力は培われるか - WSJ
Independent Reading: It’s for Everyone! | EDU
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shougai/040/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2017/08/15/1389071_005.pdf

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