カルト宗教にまつわる恐ろしい実話4選

ホラー・恐怖系

本日は、かつて実在した
世界の危険なカルト宗教と
その教祖を、ストーリー形式で
紹介したいと思う。

可能な限り、単なる事実の羅列ではなく、
読み物としてより多くの人に
興味を持っていただけるように
意識して書いたつもりだ。

それではどうぞ。

※当記事には一部グロテスクな表現が含まれていますので、苦手な方はご注意ください。

  1. ジム・ジョーンズ (Jim Jones : 1931 - 1978) / 人民寺院
    1. 900人以上を道連れにした狂気の聖職者
    2. 本と動物が友達だった孤独な少年時代
    3. 布教活動は黒人のゲットーから始まった
    4. 人民寺院の設立とその絶大な求心力
    5. 神様のお告げを受けてカリフォルニアへ移住
    6. サンフランシスコへの移住と国外逃亡
    7. 次々に暴露される悪事とガイアナへの移住
    8. 濃度を増してゆくジムの狂気
    9. 賽は投げられた
    10. 破滅の時
    11. 殺戮の後
    12. 参考資料
  2. デビット・コレシュ (David koresh : 1959 - 1993) / ブランチ・ダビディアン
    1. 80人を道連れに焼身自殺した若き教祖
    2. 私生児として生まれ、失語症といじめに苦しんだ幼少時代
    3. ブランチ・ダビディアンとの出会い
    4. 教祖に見初められて
    5. 教祖、『デビッド・コレシュ』の誕生
    6. 51日間の包囲戦
    7. 強行突入、そして…
    8. 事件後FBIに批判が集中
    9. 参考資料
  3. チャールズ・マンソン (Charles Milles Manson : 1934 - 2017) / マンソン・ファミリー
    1. SEX、ドラッグ、ロックンロールを極めた教祖
    2. 売春婦の子として生まれ、9歳で犯罪に手を染める
    3. 薬と欲で結ばれた家族(ファミリー)
    4. ファミリーの結成と拡大
    5. ビートルズが核戦争を予言した?
    6. 最初の犠牲者
    7. 逆恨みと勘違い
    8. 女優シャロン・テート殺害事件
    9. 凶行は止まらない
    10. 凶悪集団のお粗末な最後
    11. 悪は死んだ
    12. 私見
    13. 参考資料
  4. ジョゼフ・キブウェテレ (Joseph Kibwetere : 1932 - ) / 神の十戒の復活を求める運動
    1. マリア様のいう通り
    2. 十戒と終末論、そして厳格な教団のルール
    3. マリア様の予言が外れた!?
    4. 信じぬ者は救われぬ
    5. 集団'自殺'では無かった?
    6. 教祖はどこへ消えた?
    7. 参考資料
  5. さいごに

ジム・ジョーンズ (Jim Jones : 1931 - 1978) / 人民寺院

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引用元 : Those Conspiracy Guys

900人以上を道連れにした狂気の聖職者

1978年11月14日、アメリカ合衆国の
下院議員レオ・ライアン
南アフリカ北東部に位置する
ガイアナ共和国に降り立った。

彼の目的は、昨年の1977年に
1000人近い信者を引き連れて
サンフランシスコから
ここガイアナへ居を移した
新興宗教団体『人民寺院』
その教祖ジム・ジョーンズ
実態を調査することだ。


引用元 : alchetron.com
(↑レオ・ライアン議員)

マスコミのクルーや
人民寺院信者の親族らを含む
視察団を引き連れ、
東京ドーム3つ分の
広大な土地に拓かれた教団施設、
ジョーンズタウンを訪れたライアン。

だが意外にもそこで、一行は
教団側からの熱烈な歓迎を受けた。

信者が施設内部を案内し、
夜になると、視察団のための
歓迎パーティーも開かれた。

この暖かなもてなしと、
幸せそうに生活する
信者たちの姿を目にした
ライアンが抱いたのは、
「なんだなんだ、本国(アメリカ)じゃ
やつらのことを危険だ何だと騒いでいるが、
実際に見てみれば案外
平和にやっているじゃないか…」

というやや拍子抜けした感想だ。

しかし、歓迎会も終わりを迎える頃
信者の一人がライアンの側にそっと近づき
なにやら怯えるような様子で
くしゃくしゃに丸めた一枚のメモを
そっと手渡してきた。

何だ?と思ったライアンが
いぶかしげにメモを開くと、
そこには次の一文が走り書きされていた。

「ここはこの世の地獄です。
私もあなたと一緒に
ジョーンズタウンから脱出させてください」

本と動物が友達だった孤独な少年時代

My whole life I have suffered from poverty and have faced many disappointments and pain, like a man is used to. That is why I want to make other people happy and want them to feel at home.
—jim jones

(私の人生は貧困によって苦しめられ、
多くの失望や苦痛に直面してきました。
だから、私は他の人々を幸せにして、
彼らがいつも自分の家にいるような
心安らかな気持ちでいられるように
してあげたいと思うのです。
—ジム・ジョーンズ

1931年、ジム・ジョーンズは
インディアナ州の貧しい家庭に生を受けた。

少年時代のジムは読書好きで、
スターリンやマルクス、毛沢東、
ガンジー、ヒトラーなどの伝記に熱中し、
リーダーシップやカリスマ性
について学びとっていたという。

また、この頃のジムは
後に周囲が「異様な子供だった」
と振り返っているように、
人付き合いが苦手でうまく友達を
作ることができなかったようだ。

ただ、そのわりに動物は
好きだったようで、
野良猫や野良犬を拾ってきて可愛がり、
その動物が死ぬと、泣きながら
納屋の裏でお葬式をあげていたという。

そして、
そんな寂しい心の穴埋めだろうか、
それとも元来キリスト教原理主義の
色濃い土地柄のせいだろうか、
彼はやがて聖書の教えと
その布教にのめり込むようになっていく。

布教活動は黒人のゲットーから始まった

1949年、ナースで宣教師の娘の
マーセリンと結婚したジムは、
いよいよ自分の将来の道を
聖職者に定めることになる。

そして、ジムは
記念すべき最初の宣教地を
極貧の黒人ゲットー地区に決めた。

というのもジムは
常々自分が社会から疎外されている
と感じており、そのことから
当時酷い差別を受けていた黒人たちに
強いシンパシーを感じていたのだ。

しかし、ジムの船出は
決して穏やかなものではなかった。

白人でありながら
黒人に味方したジムは
周囲の差別主義者たちから
投石などの度重なる
嫌がらせを受けたのである。
(ちなみに父ジェームズは
KKKにも関わりのある
筋金入りの人種差別主義者であり、
二人はこのことを理由に喧嘩となって
長い間互いに口をきかなかったらしい)

また、ジムは同時に
共産党の集会にも通っていたが、
こちらでもFBIによる嫌がらせを受け
多大なストレスを抱えていたという。

人民寺院の設立とその絶大な求心力

ジムは日々
酷いストレスを感じながらも、
布教や差別に対する抵抗を
やめることはなかった。

その苦労の甲斐あってか
貧しい黒人を中心に
ジムの信者は日ごとに数を増し、
1957年、26歳の若さで
自身の宗教団体「人民寺院」を
設立することになる。

人民寺院は白人と黒人の
差をなくす「人種融和思想」と
貧富の差を否定する「社会主義思想」
の二柱を掲げて瞬く間に人気となり、
日曜の礼拝日には
数千人が参加するほどになっていた。

また、ジムはこの時期
ラジオやテレビを通じて
自身の思想を精力的に発信し、
他にも、「虹色の家族」と題して
多人種の養子を取ったり、
黒人の入店を拒否する
レストランを洗い出す
おとり捜査を計画するなどの
非常に「目立つ」行動を繰り返した。

このようなジムの活動は
マスコミにも頻繁に取り上げられ、
かくしてジムは差別と戦う
正義のヒーロー、もとい
時代の寵児となったのである。

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引用元 : Invitation To Inspiration

神様のお告げを受けてカリフォルニアへ移住

こうして、社会的な成功を
収めたかに思えたジムだったが、
その運命の歯車は
確実にずれ始めていた。

1962年のキューバ危機を境に
ジムは核戦争に対して
異常な恐怖を抱くようになる。

そして、丁度その時ジムの元に
次のようなお告げが下ったのだ。

「近いうちに核戦争が起き、
人類は死滅する。
しかし、ブラジルのベロ・オリゾンテと
カリフォルニア州のユキアにん
いる者だけは滅びを免れる」

カルト宗教三大あるあるのひとつ、
「私を信じるものだけが救われる」パターンだ。

こうして人民寺院は
活動拠点を一旦ブラジルに移し、
その後数年でアメリカへ戻り、
今度はカリフォルニアへと
移り直すことになるのである。

そして、人民寺院は
カリフォルニアで5年の間
力を蓄え続けることになる。

サンフランシスコへの移住と国外逃亡

1970年代に入ると、
教団の勢いはもはや
誰にも止められないほど
強大なものに拡大していた。

サンフェルナンド、サンフランシスコ、
ロサンゼルスに支部を開き、
1975年にはサンフランシスコ市長戦では
当時の市長、ジョージ・モスコーニを
当選させる上で人民寺院が
大きな役割を果たした。
(そしてそのご褒美として
ジムはモスコーニから
サンフランシスコ住宅公社委員会の
委員長に任命された)

ジムは今や、国会議員や
大統領候補とも繋がりを持つ大物であり、
弱者のために戦う彼を
批判することはすなわち悪だった。

彼の未来は
澄み渡る空のように曇りなく、
そのままどこまでも
成功を積み上げていく…はずだった。

次々に暴露される悪事とガイアナへの移住

より大都市を求めて
サンフランシスコへ移った教団は、
しかし同時により強い監視の目にも
晒されるようになった。

そして1977年、
サンフランシスコ・クロニクルの記者
マーシャル・キルダフが人民寺院の
暴露記事を書き、一度は出版を
妨害されるものの、めげずに
ニュー・ウェスト誌に
もちこんで再度出版したのである。

記事の中で暴露されていたのは、
人民寺院の元信者による、
ジムら人民寺院側の様々な
虐待(性的なものを含む)
に対する告発であり、
これは教団にとって
命取りになる大スクープだった。

これに焦ったのジムら人民寺院側。
彼らは急遽アメリカを離れ、
以前から開発を進めていた
ガイアナのジョーンズタウンに
教団の主要機能を移転することに決定。

そしてその移転には
およそ1000人の
熱心な信者たちも同行したのである。

それが、二度と変えることのない
片道切符であるとは思いもせずに…

濃度を増してゆくジムの狂気

不本意な都落ちとなった
ジムの言動は、この頃から
ますます狂気を帯びていく。

夫婦の信者には生行為を禁止し、
そうしておいて自分だけは
ハーレムを作って
肉欲の限りを尽くしていた。

ジムを信じ、祖国を捨ててまで
彼についてきた信者たちには
非人道的な強制労働が課され、
日々ジムとその側近たちによる
暴力、性的暴行の限りを受けた。

もし、逃げ出そうとして
捕まれば、集団リンチを受けたり、
大勢に見られる中で自慰を強要されるなど
肉体的、精神的な辱めを受けた。

ジムが作り出したものは
自身が語っていたユートピアなどではなく、
一部が大勢を支配し搾取する
ディストピアに他ならなかったのである。

賽は投げられた

しかし、悪逆の限りを尽くした
ジムにもついに破滅の時が訪れる。

マスコミや信者の家族の要請で、
レオ・ライアン下院議員が、
視察団を引き連れて
ジョーンズタウンを訪れたのだ。

もし、ジョーンズタウンの
実態が知られれば、
ジムは確実に法の裁きを受けるだろう。

だから、ジムは表面上は
綺麗に取り繕った。

虐待や暴行などの汚い部分は
舞台裏にしまっておいて、
視察団には教団の
綺麗な部分だけを見せたわけだ。

しかしそれも数日でボロが出た。

冒頭で触れたように、
こっそりライアンに脱走を懇願する
信者が続出し、
極め付けに信者の一人が
ライアンにナイフで襲いかかるという
事件が発生してしまったのだ。

これを受けてライアンは
予定を切り上げて
慌ただしく帰国を申し出た。

するとジムは以外にも
その申し出をすんなり承諾。

ライアンら視察団は
数名の教団離脱希望者を連れ、
11月18日にポート・カイトゥマ空港から
小さなセスナ機に乗って
ガイアナを発つこととなった。

しかし、飛行機の離陸直前
一発の銃声が空を切った。

なんと、離脱希望者の中に
ジムの放ったスパイ
ラリー・レイトンが紛れていて、
アメリカに戻ろうとする視察団に
突然銃撃を始めたのだ。

この攻撃でライアン議員は死亡。
その体には何十発もの
銃弾が撃ち込まれ、
文字通り蜂の巣になっていたという。

さらに、同行したカメラマンや
離脱希望の元信者11名のうち
5名が死亡している。

しかし、視察団を殺してしまえば、
もはや教団の崩壊は時間の問題だ。

早ければ明日にでも
後続の人間が本国からやってくるだろう。

こうして自分で
自分の首を締めたジムは、
後世にまで語り継がれる
20世紀最悪の集団自決を
決行することを決意した。

破滅の時

ライアン議員襲撃と同日の
1978年11月18日の夕刻、
ジョーンズは人民寺院の信者に対して
「革命的自殺」を指示している。

大人の信者には
シアン化物を混ぜた
フレーバー・エイドを飲ませ、
子供や赤ん坊には
それを注射で注入して殺した。

そして信者と妻子の死を確認した後、
ジムはデッキチェアに腰掛け、
拳銃で自分の頭を打って自殺した。
(第三者に打たせた説もある)

かくしてその47年の生涯に
罪のない子どもを含む
900人以上の信者を道連れにして
終止符が打たれたである。

ちなみに、死亡した
900人のうち、300人以上は
他殺であり、それらは
逃げようとしたところを
背中から撃たれたり、
自分では手が届かない位置に
毒物注射を打たれて
亡くなっていたという。

殺戮の後


引用元 : NY Daily News
↑ジョーンズタウンでの集団自殺を報じた当時の新聞記事

ジム・ジョーンズの死後、
1978年末に人民寺院は破産を宣告され、
さらに同年12月4日に教団の弁護士が
人民寺院の解散を申請した。

この事件の犠牲となった人数は
分かっているだけでも918人に登り、
これはアメリカで20世紀に発生した
故意による殺害数の最多記録である。

そして、この記録は
2001年の9月11日に発生した
アメリカ同時多発テロまで
抜かれることがなかった。

また、アメリカで
社会的に危険な宗教団体を
「カルト」と呼ぶようになったのは
この事件からである。

参考資料

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA
https://www.madisons.jp/murder/text/jones_jim.html
https://www.historicmysteries.com/jim-jones-jonestown-cult/
https://tvmatome.net/archives/706
https://www.rollingstone.com/culture/culture-features/jonestown-13-things-you-should-know-about-cult-massacre-121974/
https://matome.naver.jp/odai/2142234003584542801
http://tocana.jp/2017/10/post_14714_entry_4.html

デビット・コレシュ (David koresh : 1959 - 1993) / ブランチ・ダビディアン

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引用元 : PEOPLE.com

80人を道連れに焼身自殺した若き教祖

ドクターペッパー
発祥の地としても知られる
テキサス州ウェーコに
緑が広がる居心地の良さそうな
メモリアル・パークがある。

しかし、ここはかつて、
カルト教団ブランチ・ダビディアンの
活動拠点があった場所だった。

そしてパークの石碑には、
1959年の2月28日に
ブランチ・ダビディアンの教祖
デイヴィッド・コレシュとともに
焼身自殺した83名の信者たちの
名前が刻まれているのだ…

私生児として生まれ、失語症といじめに苦しんだ幼少時代

デイヴィッド・コレシュこと
バーノン・ハウエルは、
1959年テキサス州ヒューストンで
当時わずか15歳の母の元に生まれた。

しかも、バーノンの生物学上の父親
ボビーは母を捨て別の女性と結婚し、
そのショックからか母は
アルコールに溺れて育児放棄、
バーノンは代わりに祖父母のもとで
育てられることになったのである。

そんな私生児としての
生い立ちを背負ったバーノンは、
のちに自身の幼少期を
孤独だったと振り返っている。

少年時代のバーノンは
完全ないじめられっこであり、
本人の弁によると、
8歳の頃に年上の少年たちから
性的暴行まで受けたそうだ。

また、バーノンは生まれつき
読み書きの能力が著しく制限される
失語症(ディスレクシア)を患っており、
学校の授業についていくことが困難だった。

この失語症は長きにわたって
バーノンの人生に影を落とし続け、
彼は特殊学級に入ることになり、
学校内でバンドメンバーだった
ガーランド高校も3年の時に
ドロップアウトしている。

そしてそんな孤独な日々を
送っていたバーノンの
心を支えていたのは、
祖母がよく語って聞かせてくれた
聖書の世界だった。

その熱中ぶりは尋常でなく、
バーノンは12歳にして
聖書の内容をほとんど
暗記していたという。

ブランチ・ダビディアンとの出会い

高校を退学したバーノンは、
高校でのバンド経験を活かして
ロックスターになろうと
ハリウッドへ移り住んだ。

だが、結局その夢は叶わず、
代わりに就いた仕事も
自分をキリストの
生まれ変わりだと信じ、
聖書の話ばかりする
変人ぶりのせいで長続きしない。

しかし1981年、22歳のとき
上手くいかないことばかりの
バーノンの人生に大きな転機が訪れる。

エホバの証人のルーツにもなった
セブンスデー・アドベンチストの分派である
ブランチ・ダビディアンに出会ったのだ。

教祖に見初められて

初めは一信者に
過ぎなかったバーノンだが、
日曜日のミサで得意のギターを
演奏するなどしているうちに
だんだんと周囲の注目を
集めるようになっていく。

そしてあるとき、
そんなバーノンの姿が
当時の教団トップ
ロイス・ローデンの目に留まった。

ロイスは前指導者だった夫から
教団を受け継いだ老婦人であり、
当時その年齢はすでに70を超えていた。

しかし、バーノンは
あろうことかロイスと関係を持ち、
それによって教団内の出世コースを
一気に駆け上っていくことになる。

そして1986年、
ロイスが死去すると、
ロイスの息子ジョージとバーノンの間で
激しい後継者争いが勃発。

一時はジョージが後継者に
決まったものの、バーノンは
両派閥の銃撃戦を含む武力でこれを奪取。
1990年に、半ば強引な形で
ブランチ・ダビディアンの教祖となったのだ。

教祖、『デビッド・コレシュ』の誕生

首尾よく教祖の座を得たバーノンは、
同時に自分の名を
デビッド・コレシュと改めた。

ちなみにこの名前のうち、
デビッドは聖書に登場する
古代イスラエルの王ダビデに由来し、
コレシュは同じく聖書の
バビロン虜囚に登場する
ペルシャ皇帝キュロス2世の
キュロスのヘブライ語読みに由来している

新生ブランチ・ダビディアンは
聖書についての豊富な知識を持ち、
高いカリスマ性を備えたコレシュの力で
今まで以上の人気を得た。

かつてのいじめられっ子は、
ようやく自分の居場所を見つけたのだ。

しかし哀しいかな、
新興宗教の辿る道というのは
往往にして似通ったものだ。

教祖となったコレシュは
信者の団結力を高めるために、
「神に選ばれたブランチ・ダビディアンの
信者のみが、来るべき最終戦争に生き残る」
という、こてこての選民思想と
終末論を語るようになる。

さらにコレシュは
信者に私財を寄付させて
その資産で大量の武器を不正に購入。

その上、教団内部に射撃場を設け
信者たちに戦闘訓練を施すなど
ますます武力に傾倒していった。

しかし、そのような教団の活動は
周辺住民との軋轢を生み、
司法当局やメディアの
注目を集める結果にも繋がっていく。

このままではいずれ何かが起きる…
連日のように聞こえる教団内部の銃声に、
近隣住民達は言い知れぬ不安を感じていた。

51日間の包囲戦

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引用元 : WacoTrib.com
↑銃撃戦の舞台となった教団本部

1993年2月28日、
相次ぐ近隣からの通報を受け、
教団本部に対し強制捜査が行われた。

しかし、
ATF(アルコール・タバコ・火器及び
爆発物取締局)によるこの1回目の突入は
信者たちの激しい抵抗に遭い、
退却を余儀なくされてしまう。

この時教団側とATFの間で
激しい銃撃戦となり、
結果的に捜査官4名が死亡、
24人が重軽傷という大惨事になった。

この事態を受け、
ATFから事件の管轄を
引き継いだのがFBI。

FBIは当初交渉による解決を図り、
コレシュのメッセージを
ラジオ放送する代わりに武装解除する
という教団側の条件を呑んだ。

しかし、FBIが約束通り
コレシュのメッセージを
ラジオ放送したにも関わらず
教団側は降伏を拒否。

その後も膠着状態が続き、
マスコミと全米が見守る中
FBIは19台の戦車、装甲車、
ヘリコプターで教団を包囲し続けた。

そして最初の突入から
51日が経過した4月19日、
当時の司法長官ジャネット・リノは
ついに強行突入を決断する。

強行突入、そして…

FBIは戦車の砲撃で
教団本部に穴を開け、
そこから催涙ガスを噴射し、
信者達をあぶり出そうとした。

一方教団内部では、
FBIの突入を察知したコレシュが
信者達に集団自殺命令を出していた。

命令は絶対であり、
同意しないものは
銃やナイフで殺害された。

この時死亡した信者の中には
5人の子供が含まれている。

そして催涙ガス投入から
およそ6時間後、
教団内部から火の手が上がった。

この出火の原因は
教団信者による放火説、
可燃性の催涙ガスに
FBIの撃った銃弾の火花が
引火説など諸説ある。

しかし間違い無く言えることは
この火によってコレシュ含む81人が焼死し、
生き延びた信者はたった8人だけだった
とということだ。

事件後FBIに批判が集中

この事件は終息を迎えた後も
様々な禍根を残した。

まず、事件から時間が経つにつれて
連邦政府への非難が高まった。

一連の教団に対する攻撃が
適切な法的手続き(デュー・プロセス)に
則っておらず、
「政府が武力で信教の自由を侵害した」
と考える人々が増え始めたのである。

実際に、逮捕状の請求や
武器の使用には法律違反があったし、
無抵抗の信者に対し、FBIが発砲した
という指摘もなされている。

また、FBIは4月14日に
コレシュから送られてきた降伏の手紙を
司法長官に渡すことをしなかった。

手紙の内容は
「刑務所での布教を認めるなら投降する」
というものであり、
もしこれを受け入れていれば、
あれほど多くの犠牲が出ることも
なかったかもしれない。

とはいえ、
ブランチ・ダビディアンが
看過できない量の武器を集めていたこと、
そして教主コレシュが
危険思想の持ち主であったことは
間違いのない事実だった。

犯罪の芽をを未然に摘むためなら、
国家権力による多少の行き過ぎは
許されても良いことなのだろうか?

この事件とその犠牲者数を振り返るたび、
その疑問について思いを馳せずにはいられない。

www.bustle.com

ちなみに、デビッドコレシュの
死から25年が経過した2018年現在、
ブランチ・ダビディアンは
現在もテキサスの田舎町で
細々と活動を続けている。

参考資料

http://mgdb.himitsukichi.com/pukiwiki/index.php?%A5%D6%A5%E9%A5%F3%A5%C1%A5%C0%A5%D3%A5%C7%A5%A3%A5%A2%A5%F3%BB%F6%B7%EF
https://www.thefamouspeople.com/profiles/david-koresh-35595.php
https://www.independent.co.uk/news/people/obituary-david-koresh-1457125.html
https://www.findagrave.com/memorial/6610999/david-koresh
https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g56833-d7113921-Reviews-Branch_Davidian_Compound-Waco_Texas.html
http://time.com/5115201/waco-siege-standoff-fbi-david-koresh/
https://www.findagrave.com/memorial/2349/branch_davidian_memorial#view-photo=39407028

チャールズ・マンソン (Charles Milles Manson : 1934 - 2017) / マンソン・ファミリー

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引用元 : RXSTR.COM

SEX、ドラッグ、ロックンロールを極めた教祖

戦後景気の豊かさを享受しつつも、
片や公民権運動、ベトナム戦争、
ケネディ暗殺といった負の側面も
目立った1960年代後半のアメリカ。

そんな混沌とした時代の中、
刑務所を出所した一人の男が
十数名の若者達を集め、
ドラッグとフリーセックスを標榜する
共同生活体を結成した。

小汚い身なりのその男の名は
「チャールズ・マンソン」

後に、女優シャロン・テートを含む
五人の人間を無差別に殺害した凶悪なカルト集団
「マンソン・ファミリー」の教祖となった人物である。

売春婦の子として生まれ、9歳で犯罪に手を染める

マンソンの生い立ちは
他のカルト宗教の教祖たちよりも
さらに悲惨で荒んだものだった。

母親のキャスリーンは
複数の男性と関係を持つ売春婦であり、
16歳でマンソンを産んでいる。

しかし、キャスリーンは
産まれた我が子に関心がなく、
当初は名前すら
つけようとすらしなかった。

チャールズという名が与えられたのは
産まれてから数ヶ月経った後のことであり、
さらに当時母が気まぐれで
結婚していた男の姓をもらって
彼はようやくチャールズ・マンソンに
なることができたのだ。

だが、そんな母とも
チャールズが5歳のときに別れが訪れる。

なんと、キャスリーンが
ガソリンスタンド強盗を働いて
懲役5年の実刑判決を受けたのだ。

このことにより、
祖父母のもとへ
引き取られたチャールズ。

しかし、情緒不安定だった
彼はそこに落ち着くこともできず
親戚の後を転々とし、
最終的に孤児院に入ることになる。

だが、チャールズは
母の刑期満了を待った後、
この孤児院から脱走した。

まだ10歳にも満たない
チャールズには、たとえろくでなしでも
自分を愛してくれる母が必要だったのだ。

しかし、母キャスリーンは
そんな彼を完全に邪魔者扱いし、
はるばる訪ねて着たチャールズを
すげなく追い返してしまう。

この時、この世にまだ幼い彼を
受け入れてくれる場所は無くなった。

その後チャールズは
吹っ切れたように犯罪者としての道を
突っ走ることになる。

9歳で初めての犯罪に手を染めて
少年院送りになり、その後も
刑務所を出てはまた犯罪を犯す
サイクルの繰り返しを続けて
18歳のときには警察の
ブラックリストにも載せられた。

またこの時獄中で、悪名高い犯罪者
アルビン・“クリーピー”・カーピスと出会い、
彼からギターの手ほどきを受けている。

そして1967年、もはや
何度目かも確かでない出所の時、
チャールズは33歳となり
世の中にはSEX、ドラッグ、
ロックンロールが花盛りの
混沌の時代に突入していた。

薬と欲で結ばれた家族(ファミリー)

チャールズはまず
メアリー・ブルンナーという
図書館職員の女性に接近した。

得意のギターと
巧みな話術でブルンナーを
籠絡したチャールズは、
手際よく彼女のアパートに
潜り込むことに成功する。

そしてその後も
同じやり口で次々に若者達を誘い込み、
やがて小さなアパートの一室は
若者達が毎晩薬物(LSD)とSEXに明け暮れる、
酒池肉林の「ファミリー」へと変貌したのだった。

しかし、ここでふと
疑問に思われた方が
おられるかも知れない。

いくらギターが弾けて
口が上手かろうと、果たして
刑務所出の見ず知らずの男に
こうも次々と若い女性が
引っかかるものだろうか?と。

その答えには
当時の時代背景が大きく関与している。

チャールズが活動した
1960年代後半のアメリカは、
長引くベトナム戦争への反感や
公民権運動の高まりによって、
学生や青年層を中心に
反政府、反権力の機運が高まっていた。

中でも象徴的だったのが
サンフランシスコから全米に広まった
ヒッピームーブメントだ。

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引用元 : the

彼らは自然と平和と愛とセックスを愛し、
従来の物質主義的なライフスタイルを否定して
都市部から離れた自給自足の生活を
することを好んだ。

そして、チャールズはそんな
時代の流れを敏感にキャッチして
自分を時代の象徴に仕立て上げたのだ。

当時、チャールズのファミリーに
加わった若者の多くが、
比較的裕福な中流階級からの
ドロップアウト組だった。

一度社会のレールからずり落ちた彼らは、
流行最先端のヒッピースタイルに身を包み
社会に背を向けて生きるマンソンに憧れて
彼の元に引き寄せられていったのだ。

ファミリーの結成と拡大

アメリカのロックバンド、
マリリン・マンソンの名前が
チャールズ・マンソンに
由来することは有名な話だ。

しかし、当時
チャールズと最も親交が深かった
ミュージシャンと言えば、
やはりビーチ・ボーイズの
デニス・ウィルソンだろう。

デニスがヒッチハイクで拾った少女が
たまたまマンソン・ファミリーの一員であり、
その縁で音楽に造詣のあった
チャールズと知り合ったのだ。

その関係は深く、
デニスがマンソンを音楽プロデューサーに
紹介したり、のちに右腕となる
テックス・ワトソンを紹介したり、
マンソン・ファミリーを
自身の邸宅に住まわせたりもしていたそうだ。
(その際に金品を盗まれたり車を
破壊されたりして、デニスは
10万ドル以上の損害を被ったらしいが…)

そんなこんなで
やがて教団は大所帯になり、
また、ファミリーのメンバーである
ブルンナーとアトキンスが揃って
チャールズの子を産んだこともあって、
ファミリーはより大きな
拠点を必要とするようになった。

次にファミリーが住み着いたのは、
80歳の老人、ジョージ・スパーンが経営する
ロサンゼルス郊外のスパーン牧場だった。

信者の少女を好きな時に抱ける
ことを条件として、ファミリーは
スパーンから居住の許可を手に入れたのだ。

ビートルズが核戦争を予言した?

こうして新たな拠点を
手にしたファミリーだったが、
ファミリーの拡大と比例して
チャールズの思想も
次第に過激なものへと変化していく。

チャールズは当時大流行していた
ビートルズのへルタースケルターという
楽曲から、やがて来る最終戦争への
予言を読み取った。

チャールズいわく、
1969年の夏に黒人と白人による
人種間戦争(へルタースケルター)が起こり、
それはやがて核戦争に発展して
最終的に黒人が勝利するというのだ。

さらに、チャールズは自分を
キリストの生まれ変わりだと自称し、
統治能力を持たない黒人に代わって
デス・ヴァレーの洞窟で生き残った
マンソン・ファミリーが世界を
統治するのだと力説した。

…果たしてジャンキーのたわごと
以上の価値があるか疑わしいこの予言だが、
それでも信者達は納得したらしい。

ファミリーはこの後、
チャールズの命令によって
へルタースケルターを起こすための
様々な犯罪行為に手を染めることになる。

最初の犠牲者

1969年7月25日、
マンソン・ファミリーのメンバー数名が
音楽教師兼ドラッグ密売人である
ゲイリー・ヒンマンの家にいた。

だが、彼らがこの家を訪れたのは
決して友好的な理由からではない。

ヒンマンが相続したという
2万ドルもの遺産の噂を聞きつけて、
ヒンマンのファミリー加入と
遺産の献上を求めてやってきたのだ。

しかし、熱心な
日蓮教徒でもあったヒンマンは、
気の触れたジャンキーが率いる
怪しげなカルトに入る気も、
遺産を献上する気も毛頭なかった。

2時間ほど膠着状態が続いた後、
遅れてやってきたチャールズが
いつも携帯している「魔法の剣」
でヒンマンの耳を切り裂いた。

しかし、それでもヒンマンは屈せず、
ひたすら念仏を唱え続けていたそうだ。

そして最後はファミリーの
一員であるボビー・ボーソレイユが
刃物で胸を突き刺してヒンマンを殺害した。

殺害現場の壁には、
ファミリーがヒンマンの血で書きなぐった
「Political Piggy」
という言葉が残されていたという。

ともあれ、これでファミリーは
完全に一線を超えてしまった。

仏教の言葉を借りるなら
揃って畜生道に堕ちたのである。

逆恨みと勘違い

ヒンマンの殺害から一週間後、
盗んだヒンマンの車を運転していた
ボーソレユが逮捕された。

また、それから2日後
やはりヒンマン殺害に加わっていた
メアリー・ブルンナーが
盗んだクレジットカードを
所持していて逮捕された。

これを知ったチャールズは
「ついにヘルタースケルターの時が来た!」
と叫んだ。

そして、後世にまで
その悪名を轟かせることになる、
ある残忍な計画を実行する。

マンソンが次なる標的としたのは
私的に恨みのあった
大物レコード・プロデューサーの
テリー・メルチャーだった。

というのも、
メルチャーには、かつてチャールズを
メジャーデビューさせると
約束しておきながら、最終的に
レコード会社のコロンビアを説得できず、
約束を反故にした過去があったのだ

こうしてチャールズは
1969年8月8日、
メルチャーの邸宅にテックス・ワトソン、
スーザン・アトキンス、
パトリシア・クレンウィンケル、
リンダ・カサビアンの四人を送り込んだ。

目的はもちろん、
自分の音楽的才能を無駄にしたブタ…
つまりはメルチャーの殺害である。

しかしこの時
彼らは知らなかった。

目的の屋敷には
メルチャーはもう住んでおらず、
代わりに新たな持ち主である
ロマン・ポランスキーの妻、
シャロン・テートが
友人三人とともにささやかな
パーティーを開いていたことを…

女優シャロン・テート殺害事件

セレブの邸宅が立ち並ぶ、
ハリウッドのシエロ・ドライブ
10050番地。

そこのとある邸宅の
管理人に会いに来ていた
スティーブン・アール・ペアレント(18)は
用事を済ませ、足早に帰りを急いでいた。

しかし、彼はその道中
屋敷に侵入しようとする
不審な四人組を見つけ、
「そこで何をしている?」と声をかけた。

しかし、返事の代わりに
返って来たのは四発の鉛玉だった。

頭部に四発の銃撃を受けた
スティーブンは即死。

そう、この四人組こそが
先述したマンソン・ファミリー
のメンバーたちであり、
彼らはたった今、メルチャーの
元邸宅に侵入する最中だったのだ。

犯行は計画的だった。

まず手始めに邸宅につながる
電話線を切断し、
外部への連絡を不可能にした。

そうしておいてから、
テット・ワトソンが改築中だった
子供部屋から邸内に侵入。

内部からドアを開けて
残りのメンバーを招き入れ、
一人だけ見張りに残しておいた。

この時邸内には
女優シャロンテートと
その友人で大手コーヒーチェーンの
跡取り娘アビゲイル・フォルジャー、
アビゲイルの恋人
ヴォイテック・フライコウスキー、
そしてヘアドレッサーの
ジェイ・セブリングの三人が居た。
(屋敷の主人、ポランスキーは
この時偶然ロンドン旅行に行っており
不在だった)

侵入者に最初に気づいたのは
フライコウスキーだった。

居間の長椅子の上で
目を覚ましたフライコウスキーの目に、
銃を構えた三人の人間が映った。

「誰だ?」

「悪魔さ、俺たちは
悪魔の仕事をやりに来たんだ」

ファミリーはまず
フライコウスキーを脅し、
次に2階の寝室にいた
テートら残り三人も
居間に連れて来た。

しかしその時、
一番年長だったセブリングが
勇敢にもワトソンに飛びかかった。

一瞬、二人が揉みあったが、
決着は早かった。

ワトソンは銃を撃ち、
その弾丸がセブリングの肺を貫通した。

それでもセブリングは
抵抗を続けたが、ワトソンは
瀕死のセブリングに
ナイフを振り下ろし続けた。

やがてセブリングが動かなくなると、
ワトソンはその首にロープをかけ
天井に梁に吊るし、
テートとフォルジャーについても
同様にロープできつく縛った。

次にワトソンは
アトキンスにフライコウスキーを
殺害するよう命令する。

それを聞いた
フライコウスキーは
隙をついて逃走を図るも、
アトキンスに背後から刺され、
トドメに二発の銃弾を発砲。

しかしそれでもまだ
息があったフライコウスキーは、
最終的に銃のグリップで
頭部を何度も殴打して殺された。

これで残りは
テートとフォルジャーの
若い女性二人だけとなった。

特に、目の前で
恋人が惨殺されたフォルジャーは
もう精神の限界だった。

フォルジャーは
なんとかロープを解いて
半狂乱で逃走を図った。

しかし、庭まで走ったところで
アトキンスとワトソンに捕まってしまう。

そして、
フォルジャーはこの二人に
身体中を滅多刺しにされて
殺されてしまったのだ。

最後に残ったテートは、
必死で命乞いをした。
テートにはここで
絶対に死ねない理由があったからだ。

それは、お腹の中にいた
妊娠8ヶ月の赤子の存在だ。

テートは必死に懇願した。

「お願い、殺さないで!
私はただ自分の子を産みたいだけなのよ」

しかし、悪魔はどこまでも冷酷だった。

「知ったことか、この売女!
お前が子供を産もうが産むまいが
そんなことはどうでもいんだ、
お前はここで死ぬんだよ」

そう吐き捨てて、
身重のテートに3人がかりで刃物を振るった。

事件後に発見されたテートの遺体には
計16箇所もの刺し傷があったという。

凶行は止まらない

かくして20世紀最悪級の
集団殺人が行われたわけだが、
惨劇はこれで終わりではなかった。

シャロンテート殺害の翌日、
今度はマンソン本人が動いた。

スーパーマーケットチェーンのオーナー
レノ・ラビアンカとその妻ローズマリーを
銃で脅し、ファミリーとともに
やはり残忍な方法で殺害したのだ。

夫婦合わせて70箇所以上を
滅多刺しにされた死体は後日、
Death to Pigs」「Healter Skelter(スペルミス)」
の血文字が書かれた部屋で発見された

凶悪集団のお粗末な最後

しかし、そんな極悪非道を極めた
マンソン・ファミリーにも
ついに警察の手が伸び始める。

事件の一週間後の8月16日に、
チャールズをはじめとする
ファミリー20名が揃って逮捕されたのだ。

しかし、この時の容疑は
殺人ではなく自動車泥棒であり、
ファミリーもすぐに解放された。

この時まだ警察は、
一連の事件の犯人が彼らであると
気づいていなかったのだ。

しかし同年の10月になって
事態は一気に動き始める。

ヒンマンの件で逮捕された
ボーソレイユの恋人が、
ファミリーと殺人の関係を
警察に告白したのだ。

また、別件で逮捕されていた
スーザン・アトキンスは、
同房の囚人に自分が
シャロン・テートを
殺したのだ打ち明けていた。

その理由が、
「手柄を自慢したかったから」
というのがなんとも救いようのない
幼稚さ加減を窺わせるが、
ともかくこれによって
一連の実行犯たちが
芋づる式に逮捕されたのだ。

悪は死んだ

逮捕されたマンソンは、
第1級殺人と殺人教唆で
死刑判決が言い渡された。

また、マンソン以外の実行犯も
その残忍な犯行から揃って死刑となった。

しかし、皮肉なことに
幸運の神は悪魔に微笑んだ。

マンソンらが逮捕された
カリフォルニア州において、
1972年2月に死刑が廃止され、
マンソンらは終身刑に減刑されたのだ。

結果としてマンソンは
2017年に刑務所病院で死亡するまで
83歳という長寿を全うした。

ニューヨークタイムスはその死を
「悪は死んだ(EVIL DEAD)」
という大胆な見出しで報じている。


引用元 : eBay

私見

マンソン・ファミリーの
顛末を振り返ると、
死刑制度の役割について
強く考えさせられます。

罪のない人たちが
酷い方法で何人も殺されたのに、
それを指示した狂人は
税金で衣食住を賄われながら
牢獄でのうのうと天寿を全うする…

もし私が遺族の立場であれば、
こんな理不尽に耐えることは
絶対にできないでしょう。

冤罪などのリスクもあるため、
手放しに死刑を
肯定することはできませんが、
こういう極端なケースについては
死刑はやはり必要だと思います。
(※あくまで個人的見解です)

ちなみに、1970年代に
一度死刑廃止となった
カリフォルニア州ですが、
現在では死刑制度が復活しています。

参考資料

https://youshofanclub.com/2016/08/30/the-girls/
https://www.madisons.jp/murder/text/manson.html
https://iflyer.tv/ja/article/2017/11/26/charlesmanson01/
http://www.geocities.co.jp/Playtown-King/3778/NO71.htm

ジョゼフ・キブウェテレ (Joseph Kibwetere : 1932 - ) / 神の十戒の復活を求める運動

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引用元 : inyarwanda.com

東アフリカに、
人口3400万人の共和制国家、
ウガンダ共和国がある。

この国は長らく
バンツー系の農耕民族が
独自の部族国家を形成していたが、
19世紀末からイスラム、
キリスト文化圏の影響を受け、
1894年にはイギリス領
ウガンダ植民地となった。

ウガンダが独立したのは
それから70年も経った1963年のこと。

しかし独立を果たしてからも、
20年に及ぶ内戦や、70年代に君臨した
アミン大統領による独裁と虐殺、
エボラの流行など様々な苦難が相次ぎ、
現在もその治安は決して
良いとは言えない状況が続いている。

www.anzen.mofa.go.jp
(外務省のウガンダの治安情報ページ。ほぼ全域で注意喚起がなされている)

そしてそんなウガンダにかつて
ジョゼフ・キブウェテレという
カトリックの神父を教祖とする
宗教団体が存在した。

宗教団体の名は
『神の十戒の復活を求める運動(Movement for the Restoration of the Ten Commandments of God)』。

この団体は2000年に
世界の終わりが来ると予言し、
最終的に778人の人間を
死に至らしめることとなる。

マリア様のいう通り

キヴェテレの
過去については謎が多い。

数少ない情報から推測できるのは、
彼がウガンダの基準で経済的裕福であり、
自ら出資してカトリックの学校を
創設するほど敬虔な
キリスト教徒であったということだ。

キヴェテレは1984年ごろから
聖母の顕現(聖母マリアの姿を見ること、
またはお告げを受けること)を体験した
と主張し始めた。

そして、そんなキヴェテレに
共鳴したのが、聖母マリアに帰依する
宗教団体に所属していた
クレドニア・ムウェリンデ(♀)だった。

f:id:ama46572222:20180819105612j:plain
引用元 : Frodis Caper
(クレドニア・ムウェリンデ)

ムウェリンデは
バナナ・ビールの醸造家と娼婦という
異色の経歴を持つ聖職者であり、
自分もまた聖母の顕現を体験した
と語ってキヴェテレに接近する。

そして1989年、
二人は自分たちの宗教団体
「神の十戒の復活を求める運動(以下「十戒」)」
を共同で設立した。

十戒と終末論、そして厳格な教団のルール

十戒の最大の特徴は
聖母マリアの啓示と終末予言だった。

聖母マリアのお告げによってのみ
救いはもたらされるという教義を掲げ、
「1999年の12月31日にこの世が滅び、
信じるものだけが天国に行ける」という
カトリックの終末論を強く主張したのだ。

この教義は
ウガンダの貧しい層を中心にうけ、
十戒は設立後まもなく
1000人を超える信者を
獲得することに成功する。

また、十戒には
信者が守らねばならない
厳格なルールもあった。

まずは私財の没収。

入信希望者は家や土地など
全ての所有物を売り払って、
それらを教団に
寄付しなければならなかった。

次に、生活上の様々な制限がある。

例えば「この世の終わりが近い」
という理由で子作りは禁止されていたし、
食事は1日に2回、石鹸は使用してはならず
また信者は全員同じ緑色の
ユニフォームの着用が義務付けられた。

そして極め付けが
一切の会話の禁止である。

これは、「嘘をついてはならない」
というモーセの十戒を守るためであり、
教団外部の人間に対しても
会話をすることは固く禁じられた。

こうした教義は
外野から見ると馬鹿馬鹿しく思えるが
信者たちはみな真剣にこれを守った。

なぜなら、
そうしなければ99年に
起きるはずの最後の審判の後に
天国へ行く資格を失ってしまうからだ。

マリア様の予言が外れた!?

1989年に立ち上げた教団は
その後順調に信者を増やし、
10年後には4000人近い信者を
獲得していたと言われている。

だが、ここにきて
教団にとって非常に
都合の悪い問題が持ち上がってきた。

教団最大の売りであった
「終末の予言」がはずれたのだ。
(そもそも、その予言が当たっていたら
今私がここでこうして
キーボードを打っていることも
なかった訳だが…)

さて、この大問題を
キヴェテレたちは
どう乗り切ったのだろうか。

固唾を飲んで次の言葉を待つ
信者たちに対して、
キヴェテレは次のように語った。

「私は今、聖母マリアから
最後の日を先送りにする
という啓示を受けた。
それは2000年3月17日に起きる」

なんとマリア様が
お告げをリスケしたのである。

しかし、こんなあからさまに
都合の良い(教団にとって)お告げも、
信者たちのほとんどは
すんなり信じてしまった。

普通の人ならここできっぱり
「予言が外れたならもう
お前らなんか信じねーよ!」

となりそうなものだが、
いったいなぜだろうか?

その理由をうまく言い当てた言葉に、
心理学の用語で認知的不協和
というものがある。

これは、今回のケースで言えば
「お金も時間も山ほど注いだ信仰を
今更捨てることなんてできない」という
思いと、「でも、現実に予言が外れた」
という事実の間で働く心理現象であり、
要は、ある対象を得るために
費やした労苦が大きいほど、
それを否定する事実を
受け入れられなくなる、ということだ。

予言がはずれるとき―この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する (Keiso communication)

予言がはずれるとき―この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する (Keiso communication)

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この言葉を生み出したのは
心理学者レオン・フェスティンガー。

その著書は現在手軽に読むことができるので、
もしご興味があればご一読いただきたい。

信じぬ者は救われぬ

さて、話は本筋に戻るが、
当然ながら教団のこの苦しい言い訳を
全ての信者が信じ切ったわけではない。

中には、お告げの信ぴょう性に
疑問を抱き、脱退や寄付した財産の
返還を求める信者も現れた。

そうした信者に対し、
教団がとった手段は
永遠にその口をふさぐことだった。

コーラを大量に注文し、
それに毒を飲ませ、反抗する信者を
次々に殺害していったのだ。

そしていよいよ、
新たな予言が示した運命の日、
3月17日がやってくる。

この日、500人ほどの信者たちが、
「ついにこの世の終わりが来る。
天国に行くために教会に入れ」という
キヴェテレの指示を受けて、
新しく建設されたばかりの
教会内へ収容された。

教会に入る瞬間、
信者たちの目にはそれが、
来るべき最後の審判を超えて
自分たちを天国に連れて行ってくれる
ノアの方舟に映ったかもしれない

だが、その方舟は突然火を噴いた。
信者たちが入り終えた直後に
教会内で複数回の大爆発が起きたのだ。

この爆発で
少なくとも信者330人が死亡。

原型がわからないほど
炭化した人も含めれば
その犠牲者数は500人以上に
登ると見られている

集団'自殺'では無かった?

この集団'自殺'は
執念すら感じさせるほど計画的で、
教会内の人間を
全て抹殺するために仕組まれていた。

まず、教会は一箇所を除いて
全ての出入り口が釘打ちされ、
残る一箇所についても
最初の爆発で通路が埋まって
通行不能になるように計算されていた。

さらに後に
教団内の教祖の住居のトイレ奥から
6人の男性の遺体が発見されている。

彼らは全て事件の
一週間ほど前に殺害されており、
顔を自動車のバッテリーで焼かれ、
トイレに投げ込まれて
コンクリートで固められるなど、
その死に対して徹底的な
隠蔽工作が図られていた。

これらの状況から見て、
彼らは集団殺害の
計画を知った一部の信者であり、
計画を止めようとして
逆に殺されたものと考えられている。

ここまでくれば
もはや自殺とは呼べない。

信者たちは教団側に、
半ばだまし討ちのような形で
殺害されたと見るのが自然だろう。

教祖はどこへ消えた?

こうして教団は
業火とともに地上から消え去ったが
肝心の教祖キヴェテレと
ムウェリンデはどうなったのだろうか。

実は、教団幹部三人のうち、
事件後に死体が確認されたのは
一人だけで、肝心の二人については
今もその消息がわかっていない。

よって、一番妥当な可能性は、
予言が外れて立場が苦しくなった
キヴェテレとムウェリンデが
今回の殺戮を計画し、
自分たちは教団の財産を持って
高飛びしたといったところだろう。

しかしだとすれば、貧しい人々の
弱み漬け込んでその財産を奪い、
挙げ句の果てに生命すら奪ったこの二人は、
間違いなく地獄行きの極悪人だ。

人を心をを救うはずの宗教が、
大量の命を奪う結果となったこの事件。

筆者としては
犠牲者になった方々の冥福と、
一刻も早いキヴェテレたちの
逮捕を祈るばかりだ

参考資料

http://terrarenaissance.blog.fc2.com/blog-entry-2170.html
http://happism.cyzowoman.com/2011/10/post_220.html
http://tanakanews.com/a0327uganda.htm
http://minnashinda.seesaa.net/article/447448751.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Kibweteere
https://en.wikipedia.org/wiki/Movement_for_the_Restoration_of_the_Ten_Commandments_of_God
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%89%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%87

さいごに

本記事は、私の個人的関心から
有名カルト教団の顛末を
網羅的にまとめたものだ。

だがいざ着手してみると
これを短くまとめる事が予想以上に難しく、
全体として、思ったより文字数が
膨らんでしまった感がある。

そんな訳で実は、
今回ご紹介できなかった
興味深い教祖、団体も
まだまだあったりする。

それらについては、
また後日、別記事として
ご紹介できればと思う。

最後に、読者諸氏がこのような
悪質な宗教団体に関わることなく、
平和な日々を過ごせることを願って
本稿の結びに代えさせて頂きたい。

それでは。

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