老荘思想、胡蝶の夢の出典として我々日本人にも馴染みの深い『荘子』。
10年くらい前に孔子の言葉をまとめた記事を書いて、その流れで荘子もかじってみたことがあったけれど、その時はなんだかつかみどころがなくてよく分からない思想だな、としか思いませんでした。
ですが今になって改めて振り返ってみると、その言わんとするところにはっと感心させられることが多々あります。
特に真面目で責任感があり、「べき思考」が強い人ほど、荘子の思想によって救われるところが多いのではないかと思います。
『荘子』は私たちが幼いころから持たねばならないと教育されてきた「目標」や「計画」について、思い込みや予断に過ぎないとして切り捨てます。
来世は待つべからず、往世は追うべからざるなり。
荘子 人間世篇より
過去はもちろん、未来も追い求めるに値しない。
過去も未来も断ち切って、今に没頭せよ。
こうした柔軟で、ともすれば不真面目と受け取られるかもしれない『荘子』の思想は、何事においても生産性やコスパを重視する社会を生きる私たちにとって、新鮮な風を送り込む窓のような役割を果たしてくれるものと私は感じています。
この記事では、そんな荘子の中から、特に私が強い感銘を受けたくだりをなるべくわかりやすい形にかみ砕いてご紹介します。
※この記事の内容の8割くらいは上記書籍の受け売りですので、内容を読んで気になった場合は是非こちらもご覧ください。著者は芥川賞を受賞した経歴を持つ実力派で、読みやすくきれいな文章と要点がコンパクトにまとまった内容で入門編としてかなり満足度が高かったです。
言葉では決して表現できないものそれが「道」

老荘思想の重要概念である「道」について、荘子は逍遥遊篇で、「無何有の郷」と表現しています。
無何有の郷とは「何も生まれることのなき郷」のこと、人間の意図や作為が一切存在しない広々とした理想の世界を意味します。
人の役に立たなければならない、義理を果たさなければならない、成功しなければならないと言った強迫観念から解き放たれた世界であり、そのような無意自然なあり方こそが荘子の理想と見做されています。
また荘子は道について「道は昭らかなれば而ち道ならず」「言は弁すれば而ち及ばず」(共に斉物論篇より)とも言っています。
つまり道とは言葉で語れるものではなく、もし語れるならばそれは道ではないということ。
言葉にはそれ自体を飾ろうとする性質があり、どうしても本質から外れてしまうものだということを、荘子は「道は小成に隠れ言は栄華に隠る」と表現しています。
ちなみに武道、華道、茶道や昔ながらの職人の世界でよく言われる「目で盗め」「背中を見て学べ」という指導方法の源流には老荘思想から禅へと受け継がれたこの思想の存在があります。
しばらく前に寿司職人の修行は現代では非効率で無駄なのではないかと言う議論がありましたが、荘子はそもそもそういった人間の作為、合理性を否定するところから始まっているので相容れないのは当然ですね。
人為を捨てよう
天下を治める方法について質問した天根に対して、荘子は無名人という名の人物に次のように答えさせています。
荘子 応帝王編より
汝、心を淡に遊ばしめ、氣を漠に合わせ、物の自然に順いて私を容るることなければ、而ち天下治らん。
私情を挟むからおかしなことになるのであって、なり行きに完全に任せれば天下は治るものだ
人間の私利私欲や小細工を排して、物事の自然の成り行きに任せれば自然と秩序が保たれるのだ、という考え方ですね。
ここではテーマが天下を治める方法ですが、もっと身近な例でもこの考え方は十分有用だと思います。
私ごとで恐縮ですが、昔仕事で後輩の指導を任されたことがありました。
初めてできた後輩だったこともあり、張り切った私はあれこれと事細かにやり方を指示するようにしたのですが、なぜか相手のモチベーションが落ちてしまう結果となってしまいました。
そこで、半ば諦め半分で基本は放任してわからないところがある場合だけ質問してもらうようにしたところ、見違えたように仕事が覚えられるようになったということがありました。
おそらく、その後輩にとっては自分で試行錯誤できるやり方の方が性に合っていて、最初に私がやった方法はむしろ相手の良さ、個性を殺してしまう結果になっていたのでしょう。
人にはそれぞれの個性、得手不得手、事情、状況があり、画一的なやり方を押し付けるだけではうまくいかないということは、私にとってとても大きな発見でした。
誰からも好かれる人とは
「荘子」の徳充符篇に哀駘它(あいたいだ)という人物が登場します。
魯の哀公が仲尼(孔子)に訊く。「衛の国の哀駘它という男は、ひどく醜いらしいが、不思議なことに一緒に住むと男でも離れられなくなるらしいし、女などは彼を見ただけで『誰かの妻になるよりあの人の妾になりたい』なんて両親にねだる始末。そんな妾候補は十人単位じゃきかず、今も増えてるらしいじゃないか。そしてどうも彼は、自分の考えなど主張することもなくただ相手の話に同調するだけ(未だ嘗て其の唱うるを聞く者あらず、常に人に和するのみ=和して唱えず)。人の死を救ってあげられる権力があるわけじゃなし、人の餓えを満たす財力があるわけでもない。ほんとに見た目も醜くて、知識だって国内のことに限られるらしい。こんなありさまなのに、多くの男女がその前に集まってくるのは、これはきっと常人と違ったところが彼にあるのだろう」
NHK 100分で名著ブックス 荘子 玄侑宗久著 より
哀駘它という人物は、見た目は醜く財力もなく、知識だって別に優れているわけでもないのにどうしてか彼の元には男女問わず多くの人が集って途切れることがないという。
ここで重要なのは、哀駘它が相手の言葉に常に同調して、意見も反論も一切したことがない(和して唱えず)という点です。
人為を嫌う荘子らしいエピソードですが、これにもなるほどと思わせられる点があります。
人には基本的に、「自分の話は聞いてもらいたいが、他人の話は聞きたくない」という心理があります(笑)
人から好かれたければ傾聴に徹しろ、というのはこの心理に基づいたアドバイスなわけですね。
実際、自分の身近に哀駘它のような人物がいて、いつでも悩みや相談事をニコニコ黙って聞いてくれるとしたら、たとえ役に立つアドバイスなど一つももらえなくても私だってきっと哀駘它のそばを離れたくなくなるだろうなぁ、と思います。
また、哀駘它が自分の醜い見た目を誰かのせいにしたりもしていないところも素晴らしいですね。
全ては天命であり、与えられたものをただ受け容れている。
その潔さにまた人が惹きつけられるのでしょう。
本当に徳のある人は愚かに見える
荘子 斉物論篇より
聖人は愚ちゅんなり。万歳に参じて、一に純を成す。万物尽く然りとして、是を以て相つつむ
聖人は愚鈍で、一切を忘れる。悠久の変化に身を任せ、しかも只一筋に純粋な道を守り通す。万物をあるがままによしとし、暖かい是認の心でこれを包むのである
斉物論篇で語られたこの言葉もまた、哀駘它のような人物の本質を捉えた言葉だと思います。
私自身の経験に照らしても、これまでに出会った揺るぎない強み、魅力を持った人たちはみな、必要以上に自分を大きく見せようとはせず、常に自然体であったように思えます。
中身が空っぽの人ほどうわべを取り繕いたがる、というのは古今東西を問わず人間社会の真理なのではないでしょうか。
生も死も自然の変化の一部に過ぎない

全ての生き物にとって避けられない運命である死について、荘子がどう捉えていたのかを示す次のエピソードがあります。
至楽篇によると、弁論の好敵手だった恵施が荘子の妻の弔問に訪れると荘子はあぐらをかき、盆を叩いて歌っていたという。
荘子いわく「初めは悲しかったけれど、命というもののそもそもの始まりを考えてみれば、もともと朧で捉え所のない状態で混じり合っていたわけだ。それがやがて変化して氣ができ、全てが変化して形ができて、その形が変化して生命ができた。それが今また変化して死へと帰っていく。いわば四季の回りと同じで、妻は天地という巨きな部屋で安らかに眠ろうとしているんだよ。それが命の道理だし、だから大声を張り上げて哭くのはやめたんだ」
NHK 100分で名著ブックス 荘子 玄侑宗久著 より
大切な人の死をどうやって乗り越えるか、というのは一概に答えの出せない難問ですが、最終的にはこのエピソードでの荘子のようにそれも自然の変化の一部だと割り切ってしまうほかないのではないでしょうか。
大事なのは、悲しいことは悲しいと認めた上で、いつまでもその悲しさに囚われないこと、いなくなった人たちがもし生きていたら(あなたに)こうあってほしいと願うであろう思いを想像して汲み取ることではないかと私は思います。
ちなみに引用元の書籍ではこうした荘子の態度の背景には当時の冠婚葬祭を牛耳っていた儒教への反発があったのではと推測しています。
儒教では喪に服す時には細かいルールがあって、最も悲しい時には大声を張り上げて哭かなければならないとされている。でも、悲しみの表現は人それぞれのはずだし、そもそも形式に従えるということは本当は悲しくないのでは?ということですね。
「遊」 無意識にできる事こそが最強
「遊」は荘子の中核をなす重要な概念です。
「遊」とは端的にいうと、時間と空間に縛られない世界のことです。
「遊」を考える時に、この「無意識」であるということは重要な要素になります。これは禅にも共通する認識ですが、言葉とは実に中途半端で限界があるもので、それを扱っているのが意識です。そんな意識ではなく、無意識の方がじつはいろんなことをよく知っている。だから「直観が大事なのだ」となるのです。
NHK 100分で名著ブックス 荘子 玄侑宗久著 より
「遊」の境地を端的に表した有名な寓話に包丁の語源ともなった庖丁(ほうてい)という料理人の逸話があります。
ある日、庖丁が文恵君という王様の前で牛を解体する機会がありました。
その様子はあまりにも見事で、姿は舞のように、音は音楽を奏でているかのようでした。
感動した文恵君は「見事だ、技も極めるとここまで至るのだな」とほめたたえます。
それを聞いた庖丁はこう答えました。
「私の目指すところは道です。技術などではありません。
かつては牛を見ても、ただ牛の全体が見えるだけでしたが、今は牛を形ではなく心で捉えています。」
「自然の道筋に従って、牛の肉と骨の間の大きな隙間に刃を通し、牛の肉体に備わる本来の仕組みのままに従っているだけなのです。」
「わたしの刀は十九年の間一度も取り換えたことがありません。その間に捌いた牛は数千を数えましょうか。ですが、刃先はたった今砥石で仕上げたように鋭いままです。」
これを聞いて王は「実に素晴らしい教えを得た。この話は人の生き方に通じるものだ」と言った。
この寓話で示されているのは、マズローの学習の4段階理論の最終段階にあたる、無意識的有能の段階です。
要は、自転車の操縦のように何も意識しなくてもできる状態。これこそが最良なのです。
無意識にできるようになるには反復練習しかない。だから茶道や華道などの道とつくものには反復練習がつきものなのです。要するに、理屈は忘れる。忘れた時に身につく。逆に言えば身に付いたら頭に置いておく必要がないので忘れるわけです。忘れるということが、本当にわかるということなのです。
NHK 100分で名著ブックス 荘子 玄侑宗久著 より
一見無意味に思える反復練習にも、体に覚えさせるという意義がある。
何かを極めるためには、焦らずたゆまず地道な研鑽を重ね続けることが一番の近道だという教訓ですね。
無用の用
遊のもう一つの大きな要素に「用」を離れるということがあります。いわゆる「無用の用」ですね。
荘子は論敵であった恵施との問答で、恵施から荘子の話は樗のように巨大なばかりで取り止めがなく役に立たないではないか、と問われた荘子は山猫やイタチや巨大な牛の話を持ち出して返答しました。
曰く、山猫やイタチはネズミを獲るが、その能力のために罠にかかって死ぬことも多い。しかし巨大な牛は、ネズミは獲らないが罠にもかからない。役に立たないからこそ長生きできるのだ。だから、巨大で長生きの樗も、その下で昼寝でもすればいいだろうと嘯いたという。
荘子はこの話で近視眼的な「用」しか見えていない恵施を批判していますが、これは現代を生きる私たちの実情にもよく当てはまるのではないかと思います。
人間を社会にや経済にとって有益か無益化のみで判断する社会は、多くの犠牲を必要とする、息苦しいものとならざるを得ないでしょう。
極端なところだと、受験や就活に失敗したことで自分を無価値と責めて自殺してしまう人も出てきます。
全ての悪因は、人間を一つの物差しだけで測って、勝ち負けを分類する偏った狭隘な価値観にあるのではないでしょうか。
無能力とは、あくまでも現代社会に適合しないということにすぎず、それだけでその人の価値が全く無になるということはないはずです。
そのような価値観の固定化から解放されるためにも、荘子のような柔軟な思考、視点が必要なのではないでしょうか。
また無用の用といえば、今年のノーベル化学賞を受賞した京大の北川進氏が多孔性材料「金属有機構造体(MOF)」の研究を進める際に支えとした言葉としても有名になりましたね。

科学系のノーベル賞受賞者といえばかの湯川秀樹氏も荘子の愛読者であったことで有名ですが、もしかすると枠に囚われない荘子の考え方がそうしたインスピレーションの源泉となったのかもしれないですね。
万物斉同と胡蝶の夢
あれとこれを区別しない。是か非かを分けない。さらに荘子は、生も死も万物斉同の例外ではなく、大きな変化の流れの一部だと捉えようと提案しました。
昔者、荘周、夢に胡蝶と為る。
栩栩然として胡蝶なり。
自喩しみ志に適かなうなるかな。周なるを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為るか。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。
此れをこれ物化と謂う。
荘子 斉物論篇より
ある時、荘子は自分が蝶になった夢を見た。
ひらひらと飛ぶ蝶である。
思うまま楽しんで気持ちがのびのびとすることだ。自分が荘子であることも忘れていた。
ふと目が覚めると、はっと驚いて自分が荘子だと思い出した。
果たして荘子が夢の中で蝶になっていたのだろうか、それとも蝶が夢の中で総集という人間になっているのだろうか。
荘子と蝶は別々のものだろう。
これこそ万物の極まりのない変化というものである。
自分が蝶になってひらひら楽しく飛んでいる体験をした時、人は当然のことながらそれを夢だと思うでしょう。
しかし、目が覚めたと思っている「今」の人であるという状態が、蝶のみている夢だではないと、どうして言えるのだろうか...というお話。
万物斉同の概念を鮮やかに示した印象的な寓話。
蝶は形の上では別々のものですが、その体験をした主体としての自分は「物化(形は変化しても元は同じ)」だと荘子は言っています。
このエピソードから私たちは何を学ぶことができるでしょうか?
色々な解釈があるかと思いますが、個人的には私たちが無意識的に持っている自と他との区別をする認識を疑うこと、ではないかと感じています。
仏教には自己と他者を区別せず、お互いが密接に関係した一つの存在だとみなす「自他一如」という言葉があります。
「自分」にこだわる「我執」こそが人間の苦しみの根源であり、そこから抜け出るには我を捨てることが必要というわけです。
ただしこれは言葉で理解はしても、実践するのはとても難しいことだと思います。
かくいう私も我が身を振り返ってみれば、どうしようもなく我執まみれで当分そんな境地には至れそうにもありません。
逆に言えば、その境地に達することがいわゆる悟りを開く、ということなのかもしれないですね。
終わりに
荘子というのは理性、知性偏重の社会に対するアンチテーゼであり、人間の心を解き放つ解毒剤であるように感じられます。
もしあなたが責任や義務に押しつぶされそうであれば、「頑張るのは勝手だけど、そんなことして何になるの?」と嗤い飛ばす荘子の軽さが救いとなるのではないでしょうか。

