はじめに
あなたはアンドレイ・タルコフスキーという映画監督をご存知でしょうか。
この人は1950年代から80年代にかけて活躍したソ連出身の映画監督で、代表作としては『惑星ソラリス』『ストーカー』『鏡』『ノスタルジア』『サクリファイス』といったものがあります。
で、一体どんな映画を撮るのかというと... 極めて『眠くなる』映画です(笑)
その理由は主に詩を引用した難解な台詞回しや冗長にも思える長回しの多用にあるのですが、それでも見終えた後に不思議な満足感を感じさせるのがタルコフスキーの面白いところ。
ソ連出身であり、さらには故郷を捨てた亡命者でもあるというレアなバックグラウンドから生み出される映像世界にはなんとも言えない郷愁、甘さがあり、軽い気持ちで見始めたら気付かぬうちにその世界に心を引き摺り込まれていることもしばしば。
また、タルコフスキーの映画には人間の本質についてのハッとさせられるような洞察が多く含まれており、そこから時代や文化を超えた人類への警句を見出すこともできます。
と、前口上はこの辺にしてそろそろ本題に入りたいと思うのですが、本日ご紹介するのはそんなタルコフスキー自身の著書である『映像のポエジア』という本です。
この本のいいところは、タルコフスキーの映画を見た後に必ず気になるであろう『なぜこんな映画を作ったんだろう』『作品を通じて何を伝えたかったんだろう』という疑問にストレートに答えてくれている点です。
これを読むとタルコフスキーが衒学的な目眩しで自分を大きく見せようとしたり、難解なだけの作品を作ってエリートぶる俗物ではなく、映画監督としての使命や存在意義と真正面から向き合おうとしたとても真面目な人物であったことがひしひしと伝わってきます。
そのような色々と面白い本書について、この記事では特に私が『おっ』と思わされた箇所をいくつか抜粋してご紹介してみたいと思います。
それではいってみましょう〜
映像のポエジアより各部抜粋
第二章 芸術━理想への郷愁 より
芸術はだれに向けられるときでも、それが期待しているのは印象を呼び起こすこと、何よりも感じとられることなのである。あるいは芸術は情緒的な感動を呼び起こしたり、受け入れられたりすること、また、理性によってではなく、芸術家がそのなかに吹き込んだ精神的エネルギーのようなものによって人間を育むことを期待されているのだ。芸術が要求するのは実用的な意味での基礎教育ではなく、精神的な教えである。
第二章 芸術━理想への郷愁 より
芸術の機能的な使命は、しばしば(ときには芸術家自身によっても)思われているように、思想を吹きこむことでも、理念を信じこませることでも、用例として仕えることでもない。芸術の目的は、人間に死に対する準備をさせることであり、人間の魂を開拓し、柔軟にし、人間が善に目を向けることを可能にすることにあるのである。
『芸術の目的が人間に死に対する準備をさせること』なんていうのは自分にはなかった発想でした。というかタルコフスキーは芸術エリートの自負ゆえの使命感というか、責任感が相当に強い人だったようで、ここ以外でも映画が持つ人類に対する意義的なことを多く語っています。
第二章 芸術━理想への郷愁 より
多くの人々は、支出欄を記入したり、勘定をごまかされないために数を学ぶ。それと同じように、ただ便宜上読むことを学んでいる。しかし高尚な精神的作業としての読むという行為について、彼らはほとんどなんの概念も持っていない。
第二章 芸術━理想への郷愁 より
傑作は断崖や沼地の湿地帯に立てられた警告の標識のように、起こりうる、そしてあらかじめ準備されている歴史的大変動の場所にずらりと並んでいる。
第二章 芸術━理想への郷愁 より
天才は作品の絶対的な完成度のなかに現れるのではなくて、みずからに対する絶対的忠実さ、自分の情熱にたいする一貫性のなかに現れるのである。
第三章 刻印された時間 より
日本についての自分の印象記のなかでジャーナリストのオフチンニコフは書いている。「時間それ自体が物の本質をあらわにするとみなされている。それゆえ日本人は年齢の痕あるいは紙のほころび、つまり絵画の縁に触れた多くの手の痕跡にさえも心を引かれる。文字通り錆を意味している。 <さび> ━おそらくこれは、本当に錆だらけなのであり、古代的なものの魅力であり、時間の痕跡である。」
タルコフスキーは俳句を学ぶなど結構な日本贔屓だったそうですね。そういえば『惑星ソラリス』でも日本で撮った首都高のシーンが使われていたなぁ。
第三章 刻印された時間 より
一番の不幸は、時間のリアリティをセルロイドのフィルムの上に刻み込むことができると言う映画のもっとも価値ある可能性を、芸術的に利用するのを拒絶していることにあった。
第三章 刻印された時間 より
なぜ人は映画館に行くのだろうか。何が彼らを暗闇のホールに引きつけ、そこに1時間半ほど座って、幕の上の影のたわむれを見させるのか。気晴らしを求めているのだろうか。一種の麻酔剤を必要としているのだろうか。実際、多くの国に映画やテレビ、その他の見せ物的な興行を営業する、娯楽トラストやコンツェルンが存在している。しかし、われわれの立脚点はこのようなところにではなくて、世界を把握し、認識したいと言う人間の欲求とかかわる映画の原理的本質のなかにあるのだ。
映画館に行く人の正常な欲求は、時間を━失われた時間であれ、逃してしまった時間であれ、あるいは見出されることのなかった時間であれ━を求めていると言うことにある。人は生きた体験を求めて映画館へ行く。映画は他の芸術と同じように、人間の実際を広げ、豊かにし、凝縮する。しかし、その際、映画はその体験をたんに豊かにするだけでなく、譬えて言えば、長くするのだ。かなり長く引きのばすのである。映画の真の力は、まさにこの点にある。スターとか、紋切り型の筋立てとか、娯楽性にあるわけではない。
人がなぜ映画を見に行くのか?ってあまりに当然のことすぎて普通の人は考えもしないですけど、タルコフスキーは大真面目に考えます。
で、結論としては文明化によって失われた経験 = 時間を取り戻す代償行為がその原動力であるとのこと。肉体的な闘争が失われた現代で、スポーツがその代わりを果たしているのと似た感覚でしょうか。
私が思いうかべる理想的な映画製作のかたちは、次のようなものである。まず作家が、数百万メートルのフィルムを受け取る。そのフィルムには、たとえば人間の生活が、誕生から死まで、順を追って、一秒ごと、一日ずつ、一年ずつ、追跡するように記録されている。このフィルムをモンタージュして、二千五百メートル、つまり映画の上映時間にして、約一時間半のフィルムを受け取る(数百万メートルのフィルムが何人かの映画監督のもとに置かれ、彼らがそれぞれ自分の映画を作るのを想像するのは興味深い。その映画はどれだけ違ったものになるだろうか!)
問題は、順を追って現れる事実の断片を選択し、結合するためには、そのあいだにどういう関係があるのか、何がそれらの連続性を保証しているのか、正確に知り、見、そして聞き取らなければならないということなのである。それこそ映画なのだ。
さもなければ、われわれはよくある演劇的なドラマトゥルギーの道、登場人物に依拠して、主題を構成する道へと、容易に後退してしまうだろう。
第三章 刻印された時間 より
うーん。リアリズム。現実に生きる人間の人生そのものが既にしてドラマであると。
第四章 使命と宿命
観客は、映画の入場券を買うとき、あたかも、個的体験の空隙を埋めようとしているかのようであり、<失われた時>を追跡しに出かけるようでもある。つまり、多忙、限られた触れ合い、現代の教育の偏向と非精神性など、人間の今日的存在特殊性の結果として生まれたあの精神的真空状態を埋めようとしているのだ。
第六章 作家は観客を探求する
真の芸術家は、つねに不死に仕えている。そして世界とその世界に住む人間を不朽のものにしようとするのである。特殊な目的のために普遍的な目的を軽視し、絶対的真理を追求しようとしない芸術家は、せいぜい一時的な時代の寵児になれるだけだ。
これは創作に携わる人なら特に響く言葉ではないでしょうか。
第六章 作家は観客を探求する
観客動員数によって算術的に示される<成功>をめざすことは、馬鹿げた、無意味なことだと私は思う。同じようにひとつの意味で知覚されるものなどないのはあきらかである。芸術的イメージの意義は、それが思いがけないものだということにある。なぜならそこには、その主観的特性に応じて世界を知覚する人間の個性が記録されているからである。
第六章 作家は観客を探求する
芸術家に要求されるのは、自分自身にたいする極度の誠実さと真摯さである。そしてこれは、観客に対して誠実であり責任を持つということを意味している。
芸術家は自分の作品が観客席で大きな反応を呼び起こさないと分かっているときでさえも、彼の芸術的運命を変えることができないのである。
そのことをプーシキンは実に見事に次のように書いている。
君はツァーリだ。ひとりで生きよ。自由の道を
第六章 作家は観客を探求する
歩め、自由なる知性が君を導くところへ
高貴な功しにたいする報酬を求めることなく、
愛する思いの実りを実現するために。
実りは君自身のうち。君自身自らの最高の裁き手。
だれよりも厳格に、君は己れの仕事を評価できよう。
それに満足か、君、峻厳な芸術家よ。
現在は概ね天才として扱われるタルコフスキーですが、生前は難解な内容を批判されたり、ソ連当局の検閲や横槍に業を煮やしたり、亡命した祖国への郷愁に囚われたりと苦難の多い生涯だったようです。いやむしろずば抜けた才能のある人だからこそ凡人とは比べ物にならない苦しみがあったのかもしれないですね。
第六章 作家は観客を探求する
芸術家に唯一可能なのは、素材との一騎打ちにおいて、観客に自分の誠実さと真摯さを伝えることだけである。観客はこうしたわれわれの努力の意味を評価し、把握するのである。
観客に気に入られようとして、観客の趣味を無批判に取り入れることは、観客を敬っていない証拠である。彼らは、単に観客からお金を取りたいだけなのであり、すぐれた芸術作品で観客を育てるのではなく、自分の収入を保証できるようにしたいだけなのだ。このようなとき観客のほうも、すっかり満足しきって自分が正しいと考え続けてしまう。正しいというのは、しばしばきわめて相対的なものである。そしてわれわれ芸術家のほうは、芸術家の判断にたいして批判的な態度をとることができる観客を育てることに失敗し、そのことで結局、観客に対して完全な無関心を示すようになるのである。
西欧に長く暮らすにつれて、私には自由というものがいっそう奇妙で曖昧なものに思えてきた。真の自由を必要としている人があまりにも少ない。そうした人たちが増えるのを願うばかりだ。
自由になるために必要なのは、自由であることだけだ。だれに許可を求める必要もない。しかし状況に屈したり、甘えたりせずに、自分の天命がどこにあるか自分なりの仮説を立て、それに従わなければならない。このような自由は、きわめて豊かな精神的財産と、強い自己認識、自分自身にたいする、ひいては他の人々にたいする責任の自覚を要求する。
第七章 芸術家の責任
人々は親切な芸術家たちが用意したささやかな娯楽を受け取るために、しばしばお金を払うのである。だがこうした親切は、無関心によるものだ。彼らはこの誠実な人たち、勤労者たちの弱さや無知、無教養につけこんで、自由な時間を、冷笑しながら奪いとり、彼らを精神的にかすめ盗り、そのことでお金をかせいでいるのだ。こうした活動は、不快な匂いを漂わせる。芸術家は、彼の創造行為が生活にかかわる切実な要求であるときにのみ、創造する資格がある。創造行為が芸術家にとって副次的な、偶然の活動ではなく、彼の再生する<自我>の唯一の存在手段であるときに、創造する権利を持つのである。
第七章 芸術家の責任
『ストーカー』で私は、人間の愛こそが世界に希望はないとする無味乾燥な理論家に対抗できる奇跡であるということを、はっきり、率直に語っているのだ。この感情は、われわれにとって普遍的な、そして疑いもなく肯定的な価値なのである。愛することをわれわれは忘れてしまったけれども。
第七章 芸術家の責任
『ストーカー』の作家は、必然性の世界で生きていくのはなんと退屈なことかと語っている。そこでは偶然性さえも必然性の結果であり、われわれがいまだそれを理解できないだけなのだ、と。作家は、おそらく未知のものと出会い、それに驚き、深く心を揺さぶられるために、ゾーンに赴いたのだろう。しかし彼を本当に驚かせたのは、ただの女性だった。彼女の誠実さと尊厳の力に驚かされるのだ。だとすれば、すべてが理論に従属しているということはできなくなるのではないか。すべてを構成要素に分割し、計算することができると考えることはできなくなるのではないか。
この映画において私にとって重要だったのは、それぞれの人の魂のなかに結晶化されていて、その価値を構成している、溶かすことも、分解することもできない人間独特のものを取り出して示すことだった。表面的には失敗しているように見えても、主人公たちのひとりひとりは、きわめて高価で重要ななにか、つまり信仰を手にいれているのだ!もっとも重要なものが、自分のなかにあるという感覚。そしてこの重要なものは、ひとりひとりの人間のなかに息づいている。
ご存知ない方に補足すると、『ストーカー』はなんでも願いを叶えてくれるといわれる「ゾーン」と呼ばれる場所に4人の男たちが辿り着こうとする話で、ストーカーというのはその中の一人の通称です。ちなみにここでいうストーカーという単語には恋愛対象に付き纏うといった一般的な意味合いはなく、ゾーンへの水先案内人といった程度の意味合いです。
自分的にこの映画はタルコフスキーの中でも傑作の一つであると認識していますが、この解説を読むとさらに深みが増しますね。
まさかストーカーの妻の存在にそこまで重要な意味を持たせていたとは...
私の義務は、ひとりひとりの人間の魂のなかに生きている独特の人間的で永遠なるものについて見る者に考えさせることだと私は考えている。しかし、人間の運命は人間の手のなかにあるにもかかわらず、この永遠なるもの、重要なものは、たいていの場合、人間によって無視されている。人間は亡霊を追い求めているのだ。だがすべては最終的に、人間の存在において唯一頼ることができるひとつの単純な基本要素、すなわち愛の力に還元される。この要素は個々の人間の魂のなかで成長し、人間の生活に価値を与えることができる、人生の至高の立場に至るのである。私の義務は、映画を見る者に、自分のなかにある、愛する欲求、愛をささげる欲求を感じさせ、美の呼び声を感じさせることだと考えている。
第七章 芸術家の責任
『ノスタルジア』において私にとって重要だったのは、<弱い>人間というテーマを継続させることであった。この<弱い>人間は、見かけは戦士ではないが、私の観点からすれば、この人生における勝利者である。ストーカーもまたモノローグにおいて、現実的な価値であり、人生の希望でもある弱さを弁論していた。私は実際的な意味で現実に適応できない人が常に気に入っていた。私の映画にはヒーローは存在しなかった。しかし、強い精神的な信念を持ち、他者にたいする責任をみずから引き受ける人々は常に存在していた。このような人々はしばしば、大人の情念を持った子供を思わせる。彼らの立場は、常識的な観点からすればきわめて非現実的であり、無力すぎるのである。
第八章 『ノスタルジア』のあとで
『ノスタルジア』も好きな映画です。でもストーリーは特に意味わかんなかったんだよなぁ...映像とか演出は本当最高なんだけれど。
だからこそこうしてタルコフスキー自身の解説を聞けるのはとても興味深い。
終わりに
タルコフスキーの映画に心惹かれた方にとっては副読本として必須クラスの内容であり、一つの芸術論、文明批判として読んでも色々と発見の多い一冊でした。
文庫本としては気持ちお高めの値段設定ですが、その価値は十分以上にあったと思います。
タルコフスキーの映画が好きな人はもちろん、それ以外でも映画全般や美術に興味のある方、あるいは表層的な価値観ばかり重視する現代社会に違和感を感じているような方はこの本に適性あるんじゃないでしょうか。