カミュ『異邦人』解説。なぜムルソーは幸福な死刑囚となり得たか?

カミュの異邦人哲学

私と異邦人との出会い

「今日、ママンが死んだ」

この鮮烈な一文から始まる小説『異邦人』は
1957年にノーベル文学賞を受賞した
フランス領アルジェリア出身の作家
アルベール・カミュの初期の代表作だ。

私がこの本を初めて手に取ったのは20歳の頃。

人生設計も人間関係も
何一つうまくいっていかず焦っていた当時の私は、
せめて教養だけでも身につけて見くびられないようにしようと
受賞歴のある有名な小説を手当たり次第読んでいたのだが、
そんな中にこの異邦人があった。

異邦人のあらすじはとてもシンプルで
フランス領アルジェリアのアルジェに暮らす
ムルソーという独特な感性を持った男が
友人のトラブルに巻き込まれるなかで
アラブ人を射殺して逮捕され、
裁判の末に死刑を宣告されるという
文字に起こせばたったそれだけの話だ。
(※合間合間に母の葬儀とか、恋人との交流とかの挿話はある)

ページ数も解説を含めても
200ページに足らないという短さなのだが、
正直なところこの本を最初に読み終えた時
私はカミュがなにを伝えたくて
こんな話を書いたのかさっぱり理解出来なかった。

表面的な出来事だけをなぞれば
社会不適合者が「太陽がまぶしかったから」などという
意味不明な動機で犯罪を犯した末に満足な自己弁護すらできず
死刑になってしまうだけの救いのない話にしか見えないからだ。

だが、私はそう思いつつも
ムルソーというキャラクターに対して
奇妙な親近感というか、憧れのようなものを感じてもいた。

思えばあの時の私は、ムルソーの極端なまでの純粋さや
自分の立場が悪くなっても決して嘘をつかない愚直さを
何をやってもうまくいかない自分と重ねていた部分もあったかもしれない。

それからというもの、
私はお気に入りとなったこの小説をしばしば読み返しつつ
どう解釈すれば良いのか分からない部分については
国内外の解説や評論を読んで補完するということを繰り返し、
その中で当時は分からなかった部分についても
ある程度自分なりの解釈を持つことができるようになった。

そのような流れで本日は、
当時の私が分からなかったポイントを中心に
同じく異邦人を読んだけど意味がよく分からなかった人向けに
なるべく簡単な解説を試みてみたいと思う。

それではいってみよう。

ムルソーとはどういう人間であったか

始めに異邦人の主人公である
ムルソーの人物像に目を向けてみたい。

小説中での彼の心理描写で特に目につくのが、
目に映るものに対する不必要なまでに細かな描写だ。

私はなかへ入った。
大層明るい部屋で、石灰が白く塗られ、ガラス屋根に覆われている。

椅子とX型の脚の台が置かれていて、部屋の中央に、その台の二つが、
蓋のしてある柩をささえている。
申しわけばかり打ちこんだネジが、きらきら光り
くるみ塗りの板からとびでているのにだけが眼についた。
棺のかたわらには、どぎつい色の布を頭に巻きつけた、
白い上っ張り姿のアラビア人の看護婦が一人いた。

窪田啓作訳 新潮文庫 『異邦人』 10ページより

翌日、弁護士が刑務所へ会いにきた。
まるまるした小柄な男で、まだ若く、髪を丁寧になでつけていた。
暑かったが(私は上着をぬいでいた)、彼は
黒っぽい服を着て、固い折カラーをつけ、黒と白の太い縞の、
変わったネクタイをしめていた。
脇に挟んでいた書類カバンを私のベッドの上へ置くと、
名を名乗り、それから、私の書類を検討したいといった。

窪田啓作訳 新潮文庫 『異邦人』 81ページより

これらの抜粋のうち前者は養老院で
母の眠る棺の置かれた部屋に初めて入った時の描写で
後者は自分が被告の殺人事件の裁判で
担当弁護士にあった時の描写だということに注意してほしい。

そのような極めて非日常的な状況にもかかわらず
ムルソーの意識は棺のネジだの弁護士のネクタイだのの
無意味な細部の描写に終始している。

このことは、ムルソーが現実にあるものを
ただあるがままに受け取る人物であることを示している。

またムルソーのもう一つの顕著な特徴に、
自分の言動が他人にどういう印象を与えるかという
客観的想像力の欠如がある。

例えば、ムルソーとその恋人のマリイとの間で
次のようなやりとりがあった。

私はママンが死んだといった。
いつ、と彼女がきいたので、
「昨日」と答えた。
彼女は驚いてちょっと身を引いたが、何もいわなかった。

自分のせいではないのだ、と彼女にいいたかったが、
同じことを主人にもいったことを考えて、止めた。

それは何ものをも意味しない。
いずれにしても、ひとはいつでも多少過ちをおかすものだ。

窪田啓作訳 新潮文庫 『異邦人』 27ページより

ここでのムルソーの言動からは、
母親の葬式の翌日に恋人と無邪気に遊び回ることが
どのような社会的結果をもたらすかという
一般的な感覚がすっぽりと抜け落ちている。

実際にこの行動は後に
ムルソーがアラビア人殺しの罪で裁判にかけられた際に
検察側がムルソーを卑劣漢として糾弾する最大の口実となり、
ひいてはそれがムルソーに対する
死刑判決の最大の決め手にもなっている。

マリイとの関連で言えば他にも、
海で二人で仲睦まじく遊んだ後に
ムルソーの自室で交わされた次のやりとりも
初見ならば誰もが吃驚してしまうところだ。

しばらくして、マリイは、あなたは私を愛しているかと尋ねた。
それは何の意味もないことだが、恐らく愛していないと思われる─ と私は答えた。

窪田啓作訳 新潮文庫 『異邦人』 47ページより

ムルソーがこう返したのは、
別に恋愛的な駆け引きなどではない。

彼がその時確かにそう思っていたことを
そのまま素直に言語化しただけだ。

このようにムルソーは、
たとえそれが自分の立場を良くするものであっても
決して嘘は口にしない人物として描写されている。

私は専門家ではないので断定はできないが、
アスペルガー症候群の人の中には
思ったことをそのまま口に出してしまったり
嘘がつけないという人が一定数存在するので、
もしかするとムルソーもまたその範疇だったのかもしれない。

そのような性質のため、
ムルソーは往々にして周囲から
無口で冷たく、人間味に欠けた人物だと受け取られ、
それどころか作中ではその外面の悪さが命取りとなって
本来もっと軽い刑で済んだはずの裁判で
例外的な死刑判決を受ける事態にまで陥ってしまう。

こういった表面的な出来事だけを拾っていくと、
異邦人という小説はそれこそ一人の社会不適合者が
ひたすらに人生を転げ落ちていく様子を描いた
露悪的な物語であるかのように受け取られてしまうかもしれないが
そのような視点で固定化されてしまえば、
カミュが異邦人という物語に込めた本意を掴み損ねてしまうだろう。

カミュ自身がムルソーのことを
どのように捉えていたかについては、
カミュが異邦人の英訳版に寄せた序文の内容が明るい。

以下にその意訳と原文をセットで引用する。

(意訳)
かつて私は『異邦人』を極めて逆説的な文章で要約した。
「我々の社会では、母親の葬式で泣かないものは誰でも死刑を宣告される可能性がある」
私はこの本の主人公がゲームに参加しなかったために死刑にされた、ということを言いたかったのだ。
その意味において彼は自分が生きている社会における異邦人である。
周囲から浮いた、官能的な人生の辺縁を彼はさまよっている。
そしてそのために、一部の読者は彼を社会からの落後者とみなしたがったのだ。

しかし、彼のキャラクターをより正確に、いや、むしろより作者の意図に近い形で把握するためには、ムルソーがどのような点でゲームをしないのか、自分自身に問いかけてみる必要があるだろう。この答えは簡単だ。彼は嘘をつくことを拒否したのだ。
嘘とは、真実でないことを言わないことである。さらに言えば実際のところ、事実以上のことを言うことや、人間の心についてのことで、自分の気持ち以上のことを言うことでも含まれる。我々は日常的に人生をより単純化するためにそうしている。しかしムルソーは見かけによらず人生をよりシンプルにしようとは思っていない。彼は自分が感じたありのままを述べ、自分の感情を隠すことを拒む。すると社会はたちまち自らが脅かされたように感じる。例えば彼は、昔ながらのやり方で自分の犯罪を後悔していると言うように請われる。しかし、彼は「悔いているというよりは苛立ちを感じている」と返答する。そしてこの言葉ニュアンスこそが、彼に罪があるように感じさせているのです。

それゆえに私にとってムルソーは落後者ではなく、影を残さぬ太陽に恋する、貧しく着飾らない人間なのだ。彼は感性に欠けた人間であるどころか、執拗だが、それゆえに深い情熱、絶対的なものと真理への情熱に突き動かされている。その真理はまだ否定的なもので、生きることと感じることから生じるものだが、それなしには自己も世界も征服することは出来ないだろう。

ゆえに『異邦人』を、英雄気取りではない、真実のために死ぬことを承諾した男の物語と見ることも決して誤りではないだろう。また私はかつて、やはり逆説的に、自分のキャラクターを通じて我々にふさわしい唯一のキリストを描こうとしたのだと言ったことがある。このような説明をすればお分かりいただけるだろう。私がこういったのは神を冒涜する意図からではなく、ただ芸術家が自分の創造したキャラクターに対して抱くべき、いささか皮肉な愛情からだったということが。

(原文)
A long time ago, I summed up The Outsider in a sentence I realise is extremely paradoxical: `In our society any man who doesn’t cry at his mother’s funeral is liable to be condemned to death.’ I simply meant that the hero of the book is condemned because he doesn’t play the game. In this sense, he is an outsider to the society in which he lives, wandering on the fringe, on the outskirts of life, solitary and sensual.And for that reason, some readers have been tempted to regard him as a reject. But to get a more accurate picture of his character, or rather one which conforms more closely to his author’s intentions, you must ask yourself in what way Meursault doesn’t play the game. The answer is simple: he refuses to lie. Lying is not saying what isn’t true. It is also, in fact, especially saying more than is true and, in case of the human heart, saying more than one feels. We all do it, every day, to make life simpler. But, contrary to appearances, Meursault doesn’t want to make life simpler. He says what he is, he refuses to hide his feelings and society immediately feels threatened. For example, he is asked to say that he regrets his crime, in time-honoured fashion. He replies that he feels more annoyance about it than true regret. And it is this nuance that condemns him.

So for me Meursault is not a reject, but a poor and naked man, in love with a sun which leaves no shadows. Far from lacking all sensibility, he is driven by a tenacious and therefore profound passion, the passion for an absolute and for truth. The truth is as yet a negative one, a truth born of living and feeling, but without which no triumph over the self or over the world will ever be possible.

So one wouldn’t be far wrong in seeing The Outsider as the story of a man who, without any heroic pretensions, agrees to die for the truth. I also once said, and again paradoxically, that I tried to make my character represent the only Christ that we deserve. It will be understood, after these explanations, that I said it without any intention of blasphemy but simply with the somewhat ironic affection that an artist has a right to feel towards the characters he has created.

ここでカミュはムルソーを落伍者どころか、
「我々にふさわしい唯一のキリスト」とまで評している。

振り返ってみるに、
ムルソーは確かに変わり者ではあったが
彼のことをよく知る友人たちは、
揃ってその誠実さを褒め称えていたし、
殺人犯となったムルソーの裁判にも
多くの人たちがムルソーの力になろうと付き添った。

なにより、彼の眼を通じて描かれる
夏のアルジェの光景はどこまでもみずみずしく、
そこからは今この瞬間を生きる強い悦びが伝わってくる。

ブドウ酒を飲み過ぎたので、少し眠った。
眼がさめると煙草がほしかった。
遅かったから、走って電車に乗った。

私は午後ずっと働いた。
事務所では大層暑かった。

夕方、表へ出て、岸に沿ってゆっくりと帰るのが愉しかった。
空が緑で、愉快に感じた。
それでも、じゃがいもをゆでる料理をしようと思ったので、まっすぐ家へ帰った。

窪田啓作訳 新潮文庫 『異邦人』 34ページより

四時の太陽は暑すぎることはなかったが、
それでも水はなまぬるく、
長くのびた、ものうげな波が、低くうちよせていた。

マリイがある遊びを教えてくれた。
泳ぎながら、波の頂上で水を含み、口に水泡をいっぱいにためこんでおいては、今度はあおむけになって、その水を空へ向けて噴き上げるのだ。すると、泡のレースみたいに空中に消えて行ったり、生あたたかい滴になって、私の顔の上に降ってきたりした。
でも、しばらくすると、私は口のなかが塩からくて焼けるように感じた。

そのとき、マリイが私に追いついてきて、水のなかで私のからだにへばりついた。
マリイはその唇を私の唇に押し当てた。
マリイの舌が、私の唇をさわやかにした。

しばらくの間、われわれは、波のまにまにころげまわった。

窪田啓作訳 新潮文庫 『異邦人』 45ページより

異邦人という小説にハマれるかどうかは
ムルソーのことをどう捉えるかに大きく左右されるが、
少なくとも私にとってムルソーはヒーローであり、
一時期、確かに私はムルソーと自分を重ねていた。(今でも、一部は…)

そうしたムルソー的な在り方への憧れは、
歳を重ねて、社会の仕組みらしきものが
少しづつ見えてくるにつれて
なお一層重みを増してきているように思う。

異邦人はなぜ"不条理小説"と呼ばれるのか

一般的に不条理小説に分類される異邦人だが、
そもそも異邦人における不条理とは
何に対しての不条理であっただろうか。

それを考える上で重要となるのが
第二部から始まるの裁判のシークエンスだ。

ムルソーによるアラビア人殺しの罪を問う裁判は
判事と弁護士の応酬を中心に展開されるが、
ムルソーはその過程で、
事件の当事者であるはずの自分が
裁判から疎外されていることに気がつく。

それでも、あることが漠然と私を困らせていた。
私は十分に注意していたものの、時には口を入れたくなった。
すると、弁護士は「黙っていなさい。その方があなたの事件のためにいいのです。」といった。

いわばこの事件を私抜きで、扱っているような風だった。
私の参加なしにすべてが運んで行った。

私の意見を徴することなしに、私の運命が決められていた。

窪田啓作訳 新潮文庫 『異邦人』 125ページより

ムルソーの発言機会が減らされたのは
ムルソー自身の言葉選びが不味かったのもあるが、
ここで重要なのは、判事も弁護士も
ありのままの真実を明らかにすることを
目的とはしていないことだ。

彼らにとって重要なことは
聴衆が聴きたいと望む、
もっともらしい「解釈」を作り上げることに過ぎない。

こうした裁判の実態を目の当たりにする中で
ムルソーは裁判そのものに対して
ひどい幻滅を覚えるようになる。

この場で私のした一切のことのくだらなさ加減が、
そのとき、喉もとまでこみ上げて来て、私はたった一つ、これが早く終わり、
そして独房へ帰って眠りたい、ということだけしか願わなかった。

終わりに当たって、弁護士が、陪審員方は一瞬の錯乱によって破滅した
一人の誠実な勤め人に死刑を望むはずがないと大声をあげ、
最も確かな罰として、すでに永遠の悔恨を引きずっている
一つの犯罪に対し、情状酌量を要求するといっていたのも、ほとんど私の耳には入らなかった。

窪田啓作訳 新潮文庫 『異邦人』 134ページより

このある意味滑稽な一連の裁判劇が象徴しているものは
不合理な宇宙に合理性を押し付けようとする人類の不毛な営みだ。

社会は常に合理的な秩序を製造しようとするものであり、
理由のない。不合理な犯罪なるものの存在は
社会秩序にとっては脅威に他ならない。

これは何も社会レベルだけでなく個人のレベルでも同様であり、
例えば、凶悪犯罪や突然死のニュースが流れると
決まって加害者や被害者の個人情報を探ろうとする動きが生じるが、
この背景にはそういう恐ろしい事態に巻き込まれる人々に
ある一定の合理的なパターン(家庭環境や生活習慣など)を見出すことで
「自分は違う」という安心感を得たいという心理がある。

どんなに慎重に、善良に生きていようが、
ある日突然全てが理由なしに奪われるかもしれないという
宇宙の不合理性を受け入れることは、
ほとんどの人にとってはあまりに恐ろしすぎることなのだ。

だからこそ人は、
死後の世界であるとか神の存在とかを想像することで
正気を保とうとするのだが、
カミュに言わせれば所詮人間の作り出した虚構でしかなく、
全く不毛な営みでしかない。

つまるところ、異邦人における不条理とは
本来存在しないはずの合理的な秩序を見つけようとする
人類の無益な試みを指しているということが出来る。

そういった我々が普段意識せずに生きている社会の虚構性を
ムルソーの裁判を通じて鮮やかに描いたところが
異邦人という作品を特別たらしめている一要因ではないだろうか。

なぜムルソーは自ら死に臨んでなお幸福となり得たか

裁判の結果、ムルソーには
広場での斬首刑という極めて重い判決が
"フランス人民の名において"くだされる。

その後、独房に戻されたムルソーは
差し迫った死を逃れる方法として
恩赦請願や脱走の可能性にひたすら思いを巡らすこととなる。

大切なものは、希望の一切の機会を与えるところの、
逃亡の可能性であり、無慈悲な儀式の外へ飛び出すこと、
狂人のように疾走することだった。

窪田啓作訳 新潮文庫 『異邦人』 138ページより

なお二つのことが、絶え間なく私の頭を占めていた。
夜明けと特赦請願とが、それだ。
しかし、私は自分に言い聞かせて、もう考えまいとした。

(中略)

私にはほんとうの想像力というものがない。
それでも、この心臓の鼓動が、もうつづかなくなる、あの瞬間を、
頭に思い描こうと試みた。が、だめだった。
夜明けと特赦請願のことが、待ち構えていた。
私はとうとう、我慢しないのがいちばん賢明だと考えるに至った。

窪田啓作訳 新潮文庫 『異邦人』 142ページより

ここで重要なのは、ムルソーが
差し迫った死を回避する希望を持ち、
なおかつその考えに心が囚われている点だ。

これは有名なエリザベス・キューブラー・ロスの
「死の受容」モデルで言えば
否認と孤立〜取り引きの段階に当たる反応と思われる。

そしてムルソーの思考も独房生活の中で
その最終段階である「受容」、
つまり死を受け入れるものへと次第に変化を見せていく。

私はいつも最悪の仮定に立った。
即ち特赦請願却下だ。

「そのときは死ぬときだ」他のひとより先に死ぬ、
それは明白なことだが、しかし、人生が生きるに値しない、
ということは、誰でもが知っている。

結局のところ、三十歳で死のうが、
七十歳で死のうが、大した違いはない、ということを
私は知らないわけではない。

窪田啓作訳 新潮文庫 『異邦人』 144ページより

第一の仮定における私のあきらめを、
十分もっともなものとするためには、
この第二の仮定においても、私は当たり前な顔でいなければならない。
私はそれに成功して、一時間ほどの平静をえた。
それは、とにかく大したことだった。

窪田啓作訳 新潮文庫 『異邦人』 145ページより

ここで顕著なのは、
ムルソーが「人生は無意味である」という
不条理な結論を受け入れることによって
心の平静を見出している点だ。

カミュの作品にたびたび顔を見せる
このペシミスティックな人生観については、
ニーチェの、特に永劫回帰の思想の影響を
指摘する声が散見される。

https://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00000110933.pdf
http://triceratops.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-e72c.html

私はニーチェの思想に詳しいわけではないので
深く突っ込むことは避けておくが、
神による救済を否定している点や、
不条理な世界への闘争をテーマとしている点、
そこはかと漂うロマンチシズムなど
両者には強い近似性があるように思える。

さて、話を異邦人の本筋に戻すと
独房生活が数日過ぎたある日、
ムルソーの独房に御用司祭が訪れる。

司祭はこの訪問は友人としてのものであり、
特赦請願とは無関係であると前置きするが、
全体の事情を踏まえると
この時点ではまだムルソーに恩赦の可能性があり、
ムルソーが改心してカトリックに改宗すれば
死刑を免れるという取引が背景にあったものと推察される。

しかしムルソーは
司祭から何を言われても
「神を信じていない」の一辺倒で
一向に改宗を認めようとしない。

なぜなら、何よりも理性を重んじるムルソーにとって、
「神」や「フランス人民」といった
曖昧な概念に基づいて行われる行為に意味はなく、
そんなものに従うくらいなら
死を選ぶ方がよっぽどマシだったからだ。

判決が十七時にではなく
二十時に言い渡されたという事実、
判決が全く別のものであったかも知れぬという事実、
判決が下着をとりかえる人間によって書かれたという事実、
それがフランス人民(あるいはドイツ人民、あるいは中国人民)の名において
というようなあいまいな観念にもとづいているという事実、

━こうしたすべては、このような決定から、多くの真面目さを、取り去るように思われた。

とはいえ司祭は、ここで簡単に引き下がっては
自分の信仰を否定されることにも等しいので
なおも執拗にムルソーの説得を継続する。

加えて司祭からすれば、これは盲目な子羊を導き、
哀れな死刑囚の命を救うまごうことなき善行であり
だからこそ一層熱心にもなるのだが、
そもそも家の先ほども神を信じていない
ムルソーにとってはただでさえ残り少ない時間を
無益に浪費させられるだけであり迷惑な話でしかない。

挙げ句の果てに、
司祭は図らずもムルソーの地雷を踏み抜いてしまう。

「いいや、わが子よ」と彼は私の肩に手を置いて、いった。

「私はあなたとともにいます。しかし、あなたの心は盲いているから、それがわからないのです。
私はあなたのために祈りましょう」

そのとき、なぜか知らないが、私の中で何かが裂けた。

窪田啓作訳 新潮文庫 『異邦人』 153ページより

ムルソーからすれば、
盲目なのはむしろ司祭の方であり、
そんな相手から「盲いている」などと言われることだけは
どうしても許せなかったのだろう。

怒髪天をついたムルソーは
怒涛の勢いで司祭を罵倒する。

君はまさに自身満々の様子だ。
そうではないか。

しかし、その信念のどれをとっても、
女の髪の毛一本の重さにも値しない。

君は死人のような生き方をしているから、
自分が生きているということにさえ、自身がない。

私はこのように生きたが、
また別の風にも生きられるだろう。

私はこれをして、あれをしなかった。
こんなことはしなかったが、別なことはした。
そして、その後は?

私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、
ずうっと待ち続けていたようだった。
何ものも何ものも重要ではなかった。
そのわけを知っている。

君もまたそのわけを知っている。
これまでのあの虚妄の人生の営みの間じゅう、
私の未来の底から、まだやって来ない年月を通じて、
一つの暗い息吹が私の方へ立ち上ってくる。
その暗い息吹がその道すじにおいて、
私の生きる日々ほどには現実的とは言えない年月のうちに、
私に差し出される全てのものを、等しなみにするのだ。

他人の死、母の愛━そんなものが何だろう。
いわゆる神、ひとびとの選びとる生活、
ひとびとの選ぶ宿命━
そんなものに何の意味があるだろう。

ただ一つの宿命がこの私自身を選び、
そして、君のように、私の兄弟といわれる、
無数の特権あるひとびとを、私とともに、選ばなければならないのだから。

窪田啓作訳 新潮文庫 『異邦人』 154ページより

ここでのムルソーの語りには
何度読んでも圧倒される。

ムルソーを通じて、
書き手であるカミュ自身の憤りが伝わってくるようだ。

ムルソーのこの啖呵によって
ついに司祭は涙ながらに説得を諦め退散するが、
それは同時に、特赦請願の望みが完全に潰えたことも意味している。

だが、その状況に反して
ムルソーの心はかつてない爽やかさと幸福感に満ち溢れている。

彼が出てゆくと、私は平静をとり返した。
私は精魂つきてベッドに身を投げた。

私は眠ったらしかった。
顔の上に星々のひかりを感じて眼をさましたのだから。

田園のざわめきが私のところまで上って来た。
夜と大地と塩のにおいが、こめかみをさわやかにした。

この眠れる夏のすばらしい平和が、潮のように、私のなかにしみ入って来た。

私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。

すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、
この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びを上げて、私を迎えることだけだった。

窪田啓作訳 新潮文庫 『異邦人』 157ページより

ムルソーがこのような心理に至った理由は第一に、
死後の世界の存在を信じる司教の滑稽さを鏡として、
ありもしない可能性を想像してまで生にしがみつく
ことの愚かしさをあらためて自覚したからだろう。

偽りの希望に縋ることをやめたことで
残された貴重な時間を自由に生きられるようになったことに
ムルソーは幸福を感じているのだ。

また、同じく司祭との対話後の描写の中に、
ムルソーが、自分の母親が死の前の少し前に
養老院仲間のトマ・ペレーズと
ささやかなロマンスを始めた理由が
わかった気がしたと述べている点がある。

ほんとに久し振りで、
私はママンのことを思った。

一つの生涯の終わりに、
なぜママンが「許嫁」を持ったのか、
また、生涯をやり直す振りをしたのか、
それが今わかるような気がした。
あそこ、幾つもの生命が消えてゆくあの養老院のまわりでもまた、
夕暮れは憂愁に満ちた休息のひとときだった。
死に近づいて、ママンはあそこで解放を感じ、
全く生き返るのを感じたに違いなかった。
なん人も、なん人といえども、
ママンのことを泣く権利はない。

P156

ムルソーはこの瞬間、
母がもはや閉じていくだけだったはずの人生の中で、
もう一度生き直す道を選んだことの意味を理解したのだろう。

これは永劫回帰を「ならばもう一度」と生き直す
ニーチェの超人思想にも等しい積極的な在り方であり、
それゆえムルソーにとって
葬儀の場で母親について泣くことは、
彼女を侮辱することにも等しいことなのだ。

そして最後に、ムルソーが自身の処刑場に集まった群衆から
「憎悪の叫び」を受けることを望んだ理由については、
それがたとえ憎悪という形であれ、
死刑囚の身となったムルソーに残された
世界との確かなつながりを感じられる
唯一の手段であったからだと私は考える。

もとよりムルソーは他人から愛されたい、
好かれたいという承認的な欲求は希薄だったが、
マリイやレエモンをはじめ、
他者との交流自体は常に欲していた。

人生の無意味さを悟り、
自らもまた世界の無関心に心を開いたことで、
兄弟のように近く感じられるようになった世界の中に
自分が確かに存在するという実感を求めたのではないだろうか。

おわりに

本投稿では、
異邦人のいくつかの場面に絞って
その意味するところをあらためて解説(というには拙い気もするが)した。

そして、異邦人という小説をあらためて振り返って思ったことは、
当時のカミュもまた多くの葛藤を抱えながらこの小説を書いたのだろうということだ。

社会の不条理、人生の不条理、神の無力さ…

そのどれもが人間存在の本質に関わるテーマであり、
だからこそ異邦人は時代や国を超えて
広く読み継がれる作品となり得たのではないだろうか。

この投稿が、そんな素晴らしい傑作についての理解を深める
ほんの一助にでもなれば幸いに思う。

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