はじめに
連載35年目を迎え、
今や日本どころか世界からも注目されるようになった
超長寿バトル漫画『ジョジョの奇妙な冒険』。
このジョジョという作品は物語が一段落すると
主人公や時代設定を一新した新たな「部」を
リスタートする大河形式の連載方式を採用しており、
現行作である第9部ジョジョランズに至るまでには
実にこれまで8つもの異なる物語が描かれてきました。
そして、これらの物語において
主人公たちに立ちはだかる最大の壁となるのが
各部に当所する「ラスボス」たちの存在です。
ディオ、カーズ、吉良吉影、プッチ、大統領など
これまでに登場した歴隊のラスボスたちは
往々にして強大で、時には世界の理すらも捻じ曲げるほどの
圧倒的な力を持った存在として描かれてきました。
また、強さだけのみならずジョジョにおけるラスボスたちは
善悪はともかく各々の「信念」を持つ存在でもあり、
そうした彼らと主人公たちとの「信念と信念のぶつかり合い」の中で
これまでに多くの名場面、名勝負が生まれてきた歴史があります。
そのような魅力を持ったラスボスの登場が
シリーズ上でのある意味「伝統」となっているために
よく訓練された読者は新たらしい部が始まるたびに
「次はどんな強烈なキャラがボスで出てくるのだろう」
「次のボスはどんなぶっ飛んだ能力を持っているんだろう」
と毎回予想する楽しみが得られているわけです。
そして…
ようやくここからが本題なのですが
本日取り上げるのは
そんなジョジョのラスボスの中でも
第五部「黄金の風」に登場した
ディアボロというキャラクターです。
このディアボロ、今述べたように
列記としたジョジョのラスボスでありながらも
ぶっちゃけ他のボスたちに比べ得て
数段影が薄いというか、もっとはっきりいうと
キャラとしての魅力が乏しい気がするんですよね。
ネタとしては確かに一定の層から愛されてはいるんだけど
じゃあいざネタ抜きでディアボロというキャラに向き合ってみた時に
一体どれだけのことを語れるかと言うとこれがなかなか答えに窮するというか…。
勿論これは私の主観なので
人によっては全くそう思わない方もおられると思いますが
ともかく今回は一旦そのような視点に立ち
「なぜディアボロには魅力がないのか?」というテーマについて
6つの理由を挙げて論じてみたいと思います。
果たしてこの記事を最後まで読み終えた時、
あなたは私の自説にご賛同いただけるでしょうか?
それではいってみましょう。
なぜディアボロには魅力がないのか?
理由その1 設定とキャラデザがチグハグすぎる
まずはこちらの画像をご覧ください。
もしあなたが前情報なしに
このキャラクターの画像を見せられたら
一体どのような印象を抱くでしょうか。
ロン毛、全身にびっしり描き込まれたタトゥー、口紅、
ショッキングピンク(+緑のカビが生えたような模様)の髪
地肌が透けてる網みたいな謎のインナー…
ちょっと危ないチンピラか、
ヴィジュアル系バンドのメンバーかとは思えても、
まさかこれが「正体を隠して生きるマフィア組織のボス(33歳)」
という設定を持つキャラクターのファッションだとは
まず連想できないのではないでしょうか。
第一、もし街中でこんな特徴的な格好をしていれば
目立って目立って仕方ないでしょうし、
そのせいで他人の記憶に無駄に強く残ることは
当人が最も嫌うはずの正体の特定へと
繋がりかねないリスク要因に他ならないはずです。
このようにディアボロの外見は
その根本的なキャラクター設定と明らかに矛盾するものであり、
それが読者に不要な違和感を
抱かせてしまう要因となっているように思えるんですよね。
また、目立つことが嫌いなはずなのに
派手な格好を好むボスといえば過去には
第四部で登場した吉良吉影なんかもそうでしたが
吉良の場合は作中で「プライドの高さ」や
「平穏を望みながらも隠しきれない凶暴性」が
キャラクターとしてしっかり描写されていたので
そうした矛盾がむしろキャラクターとしての魅力を
さらに向上させていたように思います。
ディアボロの場合は
その辺の掘り下げがラストバトルに至るまで
ほとんどされてなかったのが痛かったですね。
また、5部の序盤でブチャラティが
こんな説明をしていたことも
ディアボロのチグハグ感に拍車をかけています。
幹部レベルで徹底されていることを
なぜトップであるディアボロ自身ができていないのか…。
理由その2 全体的にキャラの掘り下げが浅すぎる
ディアボロには他の部のボスと比べて
作中での人物像の掘り下げが極端に浅いという
キャラの魅力を語る上では致命的な弱みがあります。
本人がまともに姿を表したのは
作中が佳境も佳境に入った
ローマでの最終決戦のことであり、
コミックスの巻数で言えば
第五部の全15巻中第13巻目という異例の遅さ。
加えてその最終決戦においてすら
登場直後にチャリオッツ・レクイエムの横槍が入り
半分くらいは他人の精神に
コソコソ潜む描写がなされるという体たらく。
こんなだからディアボロはラスボスでありながら
5部を最後まで読み切った多くの読者からも
「時を飛ばせる滅茶苦茶強いスタンドを持っていて」
「最後はGERに殴られて無限に死に続ける羽目になった人」「大冒険の主人公」
以上の印象をもたれることができなかったわけです。
では、一体なぜそのような
遅い登場となってしまったのか。
私はそこに、ディアボロのキャラ付けに纏わる
2つの原因があったと考えます。
まず第一は二重人格という
キャラクター設定に関しての問題です。
既読の方はご存じのように
ディアボロは1つの肉体に2つの精神が同居する
いわゆる二重人格者であり、
普段は副人格の「ドッピオ」が表に出ることで
ディアボロとしての正体を隠しているという設定でした。
これは一見すると斬新な試みにも思えますが
しかし実際にはただでさえ少ない出番を
ドッピオと食い合うという弊害を産んでいたように思います。
その上なまじドッピオが
「ヘタレだけどやるときはやる」
という魅力あるキャラクターだったために
相対的に真打であるはずのディアボロの
姑息さや小物ぶりが余計に目についてしまう始末。
たとえ二重人格設定でも、表と裏の人格が
お互いの魅力を引き出し合う関係であれば話は別だったのですが、
ドッピオとディアボロをそのような関係として
描き切れていないように感じられたことは残念な事です。
続いて第二の理由は
誰にも正体を明かさないことで絶頂を維持しようとする
ディアボロの根本的な性向にまつわる問題です。
ある意味この性向こそが
ディアボロをディアボロたらしめる
最大のアイデンティティであったわけですが、
結果的にはそれがディアボロの出番の少なさや
読者へ与える印象の弱さへと
繋がってしまっていたのだから皮肉以外の何物でもありません。
正体を闇に隠したまま巨大な組織を支配する敵の恐ろしさを
描こうとした狙いはわかるのですが、
そのせいで肝心なラスボスの出番が減ってしまったわけで
総合的に見れば作品にとってむしろマイナスだったのではないかと…。
ちなみにですが5部に続いて連載された6部ではこの反省か、
黒幕のプッチ神父が比較的早い段階から正体を表して
自分からアクティブに物語に絡んでくるタイプのラスボスとなっていました。
理由その3 言動がいちいち小物くさい
作中におけるディアボロの発言には
何かと小物臭が付き纏います。
矢の争奪戦に負けた時の
「便器に吐き出されたタンカスどもがッ」とか
実の娘(14)に一杯食わされた際の
「お前は私を本気で怒らせたッ!」とか
チャリオッツレクイエムに殴りかかろうとした際の
頭の悪そうな「なんかわからんがくらえッ」とか…
追い詰められるとそれまでの大物ぶった態度が崩れて
本性が剥き出しになるのはディオ以来のある意味伝統ではありますが
ディアボロの場合、その前提となる余裕のある時の描写が少なすぎて
どうしても情けない姿ばかりが印象に残ってしまうんですよね。
そしてもう一つ、
ディアボロのセリフの中でも特に有名なものに
この記事のサムネにも設定した
「俺のそばに近寄るなぁぁぁぁ」があります。
これは、GERの力で無限に死に続ける運命に放り込まれたディアボロが
次々と襲いくる「死」に怯えて最後に口にした言葉でしたが
この台詞が(主にネタ方面で)有名になってしまったことも
今に至る残念な方面のディアボロのイメージ形成と無縁ではないでしょう。
例えばDIOであれば時間停止中にナイフをばら撒く姿であったり、
吉良であればメガネのチンピラをすれ違いざまに吹っ飛ばす場面であったりと
他のラスボスはそれぞれにパッと思い浮かぶ格好いい決めゴマがある中で
ディアボロに関しては最も有名なのが
あの情けない姿だというのはちょっとあんまりですね。
あとこれはまた後に触れることですが
ディアボロの決めゴマの少なさは
単純な出番の少なさに加えて
「過程を吹っ飛ばす」キンクリならではの
事情も絡んでいてなかなかに根深い問題です。
理由その4 正体がバレた経緯のダサさ
作中でディアボロの正体が露呈するきっかけとなったのが
若い頃に故郷のサルディニア島で知り合った
ドナテラという女性が自身の知らぬ間に産んでいた
実の娘トリッシュの存在でした。
そう、端的にいえばディアボロは
若い頃に「避妊をしなかった」せいで
全てを失う羽目になったのです。
あれほど自分に繋がる全ての痕跡を入念に消していた男が
最後には若き日のたった一度の過ちのせいで全てを失う…
人間臭いといえば人間臭いですが
1つの章のラスボスを務めたキャラの敗因としては
あまりにも間が抜けすぎですね。
とりわけディアボロは
「巨大組織の頂点に君臨しつつも正体を徹底的に隠蔽する」
ことこそが他のラスボス達の最大の差別点となっていたからこそ
この身バレの仕方は余計に…。
理由その5 キング・クリムゾンの能力が映え辛い
ディアボロのスタンド能力といえば
キング・クリムゾンですが
そこにもまたいくつか
作劇上の問題があったように思います。
それは第一に、能力の制約からくる
絵的な「映え」の困難さです。
時飛ばし可能時間が数秒と短く、
また時飛ばし中は他の物質に干渉できなくなる都合上、
ディアボロ側の基本的な戦術は
不意打ちとヒットアンドアウェイに限定されてしまいます。
実際作中でも敵を攻撃する際は死角からの
不意打ちばかりでしたよね。
一応それもディアボロのクレバーな性格を反映していると
好意的に捉えられなくもないですが
しかしDIOが見せた「時間停止 + ナイフ投げ」や
大統領の「平行世界の自分との連携攻撃」などの
見栄えのする戦闘シーンが作中で描けなかったことは
ディアボロとキングクリムゾンの魅力を読者に表現する上で
1つの大きな枷になっていたのではないかと思います。
また、根本的に能力が難解で
何が起きているのか直感的に理解しづらかった点も
ラスボスに当たるポジションのキャラの能力としては
辛いものがあったように思います。
「時間を止められる」
「時間を巻き戻せる」「時間の進みを速くする」
といった直感的な分かりやすさがないと
同じファン同士でも能力の解釈が分かれたりして
気軽に話題に出せなかったりしますからね…
(その分議論のしがいのある能力ではあるのですが…)
理由その6 肝心のラストバトルの出来がイマイチ
ディアボロに関して個人的に残念だったのが
最大の見せ場であるはずの
最終決戦の出来がイマイチに感じられたことです。
ディアボロがついに真の姿を表し、
ポルナレフを瞬殺したまでは良かったのですが
その直後に出現したチャリオッツレクイエムに対しビビりまくり、
その挙句主人公チームもろとも能力の巻き添えになって仲良くお寝んね。
目が覚めたら肉体はブチャラティと入れ替わり
その後はコソコソと他人の肉体に隠れ潜んでチャンスを窺うという
ラスボスとしてはあまりにも地味すぎる立ち回りを披露する始末。
そして何やかんやあって
ようやく本来の肉体に戻れたと思ったら
その直後に弓と矢で覚醒したGERによって
ろくな駆け引きもさせてもらえず
一方的に蹂躙されて退場という、
改めて文字起こししてみると
あんまりにもあんまりすぎる顛末でした。
ここもまた「ひたすら正体を隠すラスボス」という
基本コンセプトの弊害が出てしまっていますね。
理由その7 深刻なカリスマ不足
最後に、メタ的な意味ではなく物語的な意味での
ディアボロの人望のなさについても触れておきます。
思えばパッショーネに所属する
ディアボロの部下の中で
本当の意味で忠誠心があったと言えるのは
せいぜいドッピオとペリーコロさんくらいのものでした。
(カルネあたりも微妙なラインですが、何せ本人の心情がわかる描写が一切なかったので…)
ブチャラティチームや暗殺チームは言わずもがな、
他の構成員にしてもポルポは組織に黙って隠し財産を蓄財していましたし、
チョコラータなんかはセッコへの連絡の中で
下剋上の意思を漏らしていました。
他にも作中ではディアボロ直属の親衛隊
というのも登場していましたが、彼らに関しても
ディアボロ個人に対して、三部のヴァニラアイスや
七部のマイクOのような崇拝感情を持っているものはいませんでした。
というより、ここまで書いて思ったのですが
そもそもの問題として作中でドッピオ以外で
ディアボロとまともに関りを持ったキャラが
いなさすぎるんですよね。
例えば四部の「吉良吉影と川尻しのぶ」や
六部の「プッチとDIO」のように作中で他キャラとの絡みが描かれていれば
そこからキャラクターの掘り下げができていたのかもしれないですが
残念ながらそこはディアボロ。
最初に徹底的に他者から身を隠すというキャラ付けをされた時点で
この方向でのキャラの掘り下げはそもそも絶望的だったのでしょうね。
もしかするとドッピオは
そういう問題を解消するための
テコ入れも兼ねた存在だったかもしれないですが
しかし実際にドッピオの存在が
ディアボロの魅力を引き出していたかというと
それも正直微妙なところで…
せめてドッピオが死亡した際に
ディアボロが何らかのリアクションを見せていれば
もう少し読者からの印象も違っていたのかもしれないのですけどね…
最後に
私が当記事を書いて得た結論は、
ディアボロに魅力がない最大の理由は
「徹底的に他者から自分の正体を隠す」という
ディアボロの根本的なキャラクター設定にあったというものです。
4部の吉良が新たな悪役像の地平を切り開く
傑作キャラであったことからそれを越えるキャラをという意気込みで
斬新な設定を与えたのかもしれないですが
だとしたらそれを物語中で上手く魅力に
昇華できなかったということなのでしょうか。
弘法も筆の誤りというか、どんな作家でもコンスタントに
あたりを生み出せるとは限らないのが創作活動の怖いところです。
果たして今連載中の第9部では
どんなラスボスが登場するのでしょうか。
願わくば、これまでノウハウを活かした
斬新で魅力あるラスボスであって欲しいものですね。